三池敏夫監督と特撮美術の世界
特撮映像の作品の「世界」を作り出すのが特撮美術だ。
「特撮美術のリアリティが、怪獣というフィクションに説得力を与える」
こう話す三池敏夫特撮美術監督は、この道40年のベテラン。
その三池監督に、特撮美術の要諦と現在の課題をたずねた。
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特撮美術監督・三池敏夫インタビュー
特撮作品の魅力の3本柱「美術」「爆発」「合成」
――特撮美術とは、端的に言ってどのような仕事なのですか。
三池敏夫監督(以下、三池) 映画における美術という仕事は、台本に書いてある文字情報を、被写体に置き換えることなんです。基本的には見える被写体、つまり空から、町から、山から、海から、飛行機や車まで全部を作るのが特撮美術の役割。基本的にはセットを作ってミニチュアで飾り、作品の世界観を作る専門的な作業です。日本では、怪獣映画が非常に盛んになりましたので、怪獣やヒーローに関しては、怪獣造形部という形で独立していて別の部署になるんですけど、それ以外のものに関しては特撮美術がすべて用意します。
――三池監督は、小さい頃から特撮作品がお好きだったそうですが、特撮の世界を志したとき、美術を目指されたのはどんな理由があるのでしょう?
三池 ぼくの原体験は最初の怪獣ブームなんですね。1966年に『ウルトラQ』が放送開始され、『ウルトラマン』が続きました。それからピープロ(ピー・プロダクション)の『マグマ大使』という作品もありました。映画館でも『ゴジラ』シリーズは人気で、1965年には大映の『ガメラ』シリーズも始まりました。そういう形で、映画もテレビも怪獣が花ざかりで、僕ら世代は、もうみんな怪獣に染まったんですね。
――いわゆる第1次怪獣ブームですね。
三池 怪獣が大好きになって特撮の世界に興味を持ったのですが、高校生で将来の進路をどうするかという岐路に立ったときに、初めて映画の世界に入りたいなと考えました。すぐに監督になれるわけじゃないのはもちろん分かっていたので、自分の適性として絵を描いたり物を作ったりするのは好きでしたから、美術が自分の適性に合ってるかなと、それぐらいのアバウトな動機で特撮美術を目指したんです。
――実際に特撮美術の仕事をやってみて、どのように感じましたか。
三池 自分にとって、特撮作品の魅力は3本柱がありました。まず「良くできたミニチュア」です。良くできたミニチュアの中で、怪獣やヒーローが戦うのは凄い魅力があります。次が「爆発」。怪獣映画では必ず建物が壊れ、橋が倒れ、塔が倒れる映像が出ますが、特撮の見せ場となる破壊シーンも魅力があって大好きです。三つ目は「合成」。ミニチュアと人物の合成のシーンは、本当にカッコいい画作りをしている。その特撮の「美術」「爆発」「合成」のどこかに、自分は専門職としてつきたいなという思いがありました。そこで自分の適性として「美術」を選んだのです。まずは助手として、先輩やデザイナーから言われるままにいろんな物を作ったり、現場でセットの飾り込みをしたりしました。すると美術という職業自体、必ずしも監督の指示ですべてが進むわけじゃないんだなっていうのが分かるようになってくる。美術部の自主性やデザイナーの考え方で、画作りが全然違ってくるというのを感じて、そこにやりがいを見出す形で、この仕事に長く取り込むことになりました。
――やりがいを見いだしたのは、仕事を始めてどれぐらいのころですか。
三池 仕事を始めて5、6年後ですかね。最初は右も左もわからないので、いろいろ失敗も重ねて経験を積んでいったのですけど、5年ぐらい続けていると腕も上がるし、ある程度、やるべきことが見えてきますよね。そんな中で自発的にいろんなことにチャレンジして、それが映像に反映されて作品が良くなると、やりがいや手応えを感じましたね。
――最初に手応えを感じた作品というのは?
三池 東映のスーパー戦隊シリーズで91年の『鳥人戦隊ジェットマン』です。正義のメカと敵側メカの空中戦があったときに、それまでの東映特撮の画作りはなかったようなセットを作ろうと思ったんです。ちょうど同期で特撮研究所に入った佛田洋くんが特撮監督で、自分はデザイナーという立場で参加できたので、とことんやりました。
師匠のいいところを兼ね備えようというのが僕の方針
――特撮美術の師匠は、大澤哲三さんと井上泰幸さんとのことですが、お2人からどのような影響を受けたとお考えですか。
三池 このお2人からの影響で、今の自分はできてると思います。最初にキャリアをスタートしたときのデザイナーが大澤哲三さんです。大澤さんは、自分では特撮が好きって言わないひとだったけど、実は大好きで、生涯特撮作品に関わり続けるんです。初期の円谷プロでキャリアをスタートして、70年代の『ジャンボーグA』や『ミラーマン』あたりでデザイナーを任されるようになるんですけど、テレビの歴史からいくと、円谷プロの中でも一番予算的に厳しい時代で、相当、苦労して画作りをした方なんですね。のちに特撮研究所で戦隊シリーズや宇宙刑事シリーズの特撮デザインを手掛けられますが、ちょうど84年入社の私と佛田は、大澤さんの下で、長年培った効率重視で画を作るということに関して貴重な勉強をさせていただきました。その後、川北紘一特技監督の平成ゴジラシリーズのときに、大澤さんと再びご一緒させていただいて、またそこでもセットの省略法や効率化を学びましたね。
――もう1人の師匠の井上泰幸さんは?
三池 井上さんは、円谷英二監督の時代から東宝の特撮作品をずっと支えてきた方です。特撮デザイナー渡辺明さんのチーフ助手という立場ですが、1956年の『空の大怪獣ラドン』ぐらいから井上さんがセット設計の主力でした。阿蘇山のセットにしても、長崎の西海橋にしても、福岡の市街地にしても、井上さんの設計ですね。井上さんのやり方は大澤さんと対極で、どこから撮ってもいいように徹底的にやる。時間がある限り手を入れて、撮影が始まるまで作業が終わらないっていうぐらい、完成度にこだわる方でした。円谷監督時代の東宝映画のミニチュアは極めて精度が高く、世界的にも名声を得るわけですが、徹底したミニチュアセットを陣頭指揮したのが井上さんです。
井上さんはアルファ企画っていうミニチュア造形の会社を作って、円谷プロ作品、東映作品、ピープロの作品などを手掛けましたから、井上さんの人生は日本特撮の歴史と重なるんですよね。ぼくは、映画でご一緒したのは『首都消失』1本だけなんですが、「東武ワールドスクウェア」に展示された姫路城と熊本城のミニチュア造形など、事あるごとに呼んでいただいて、美術、造形の美術助手として長くつきました。
そんな、お2人のいいところを、適材適所で使い分けるのが私のやり方です。
――佛田監督や平成『ガメラ』シリーズの樋口真嗣監督もそうだと思いますが、三池監督は同世代の有力な特撮マンと一緒に仕事をする環境にいらっしゃいます。彼らは三池監督にとってどのような存在でしょうか?
三池 東映においては佛田くんと同期で入って、彼が特撮監督、私が特撮のデザイナーという形で一緒に仕事をしました。その後、平成『ガメラ』シリーズは樋口特技監督の下で特撮のデザイナーということで3本やりました。尾上克郎監督も、ほぼ同世代なんですけど、尾上さんが特技監督で、『のぼうの城』『進撃の巨人』『シン・仮面ライダー』など、ずっと一緒にやってきました。最近は庵野秀明監督にもお世話になってますね。同世代の良さとしては、原体験が共通してるので、アニメや特撮で同じ作品を観ているわけです。すると画作りのイメージを共有する上でもスムーズで、やりやすさを感じます。
私が若いころ撮影所の中では、特撮もの、怪獣もの、ヒーローものってランク付けが下に見られる傾向がありました。スタジオや機材を借りるにしても、「特撮で使うのか」みたいな言われ方をする。そんな中で、佛田監督、樋口監督、尾上監督、庵野監督たちと一緒に、特撮の地位を向上させるために戦ってきたっていう思いはあります。ATAC(アニメ特撮アーカイブ機構)という組織が出来たのもその流れですね。
――特撮美術の仕事をする上で、最も大切にされていることは?
三池 ミニチュア特撮が大好きでこの世界に入ったので、時間とお金が許す範囲で、手を抜かずにやっていこうと。怪獣が主役だろうが、巨大ヒーローが主役だろうが、お客さんがセットに対して「よくできてるな」と思ってくれるようなものを作りたいということですよね。セットのリアリティが怪獣というフィクションに説得力を与えると思いますので。
――美術監督としての立場として最も重視しているのはなんでしょうか。
三池 なかなかスタジオいっぱいにミニチュアを飾れるようなことができない時代になっていますが、原点にあるのは、子供のころに見ていた昭和に制作された特撮映画や特撮ヒーロー番組なんですね。ですから先輩たちに見せて、恥ずかしくないような仕事をしようと思ってやってきました。そしてキャリアを積んだ分、少しでも新しい物を作りたいという気持ちは持ち続けています。ただ残念ながら、最近は基本的に合成バックという、単色の青とかグリーンの前でミニチュアを飾ることが多くなりました。それでもやっぱり被写体として、ミニチュアの良さを出したいと、そういう思いでやってます。