丸の内 TOEI閉館記念
さらば昭和の大映画館! いまこそ昭和の映画館を語ろう!
銀座3丁目の東映本社ビル内にある「丸の内 TOEI」(旧名:丸の内東映劇場)。2025年7月27日の閉館がついに発表された。ついに、というのは、ここがおそらく昭和の映画全盛期(註1)の面影を今に残す、東京最後の映画館(註2)だったからだ。映画人口が最盛期のころ、銀座は浅草に次ぐ映画の街として、各社のメイン館が一堂に集結し、にぎやかなる映画の街だった。その風景が消えると、かつての映画街の記憶は急激に忘れ去られていくだろう。そこで今回は、少年時代から「銀座の映画街」に親しんだ映画評論家・映画監督の樋口尚文氏とともに、「丸の内 TOEI」閉館への惜別とともに、今一度「大劇場のあった映画館街」の記憶を振り返りたい。
Index

Chapter1 さらば丸の内東映
丸の内 TOEI(旧名称:丸の内東映)

1960年9月に映画会社・東映が、銀座の中心地に地上8階、地下3階の本社ビル「東映会館」を竣工し、会館内に「丸の内東映」(邦画封切館。1〜4階:847席/収容人員1500名)と、「丸の内東映パラス」(洋画封切館。地下1〜地下2階:565席/収容人員1000名)の2館をオープン。以後、65年にわたる営業を続けてきた。なかでも「丸の内 TOEI」は、邦画各社が邦画上映をシネマコンプレックス(シネコン)に吸収させていくなか、東映邦画系のフラッグシップ館として存在し続けた。またその間、名称の変更や改装はしたものの、改築は行わずに営業を続けてきたため、現在の映画館ではほとんどみられなくなった広々とした2階席、高い天井など、往時の映画館を彷彿とさせるオープン当時の威容を現在まで保っている。なお、シネコンの時代になってから、映画館営業部門は子会社であるディ・ジョイの運営となったため、この2館が東映の最後の直営劇場となる。なお、7月27日まで、東映系で公開した全97作品を回顧上映する閉館イベント「さよなら 丸の内TOEI」を開催中。その最後の勇姿を、ぜひ見届けてほしい!
<館名の変遷>
「丸の内東映」(東映系邦画封切/1960年9月)→「丸の内TOEI1」(2004年10月)
「丸の内東映パラス」(洋画封切/1960年9月)→「丸の内シャンゼリゼ」(1989年3月)→「丸の内TOEI2」(2004年10月)
ウェイン・ワン監督も感激したクラシックな佇まいの映画館

――樋口さんは、2013年の「銀座シネパトス」の閉館時に、自ら閉館を惜別する映画を作られたほど映画館への愛着がお強いですね。そしてついに来るべき時が来てしまった。7月27日をもって「丸の内TOEI」が閉館します。丸の内TOEIは、樋口さんにとっても少年時代から思い入れがある映画館だとうかがっています。閉館の報を聞いてのお気持ちは?
樋口尚文氏(以下、樋口) 私は、東京タワーのすぐ近くにある芝中学に通っていました。そのころから、無類の映画好き少年でして。学校から一番近くにある映画館の多い場所といえば、もう銀座ですから、生意気にも中学から銀座の映画館に通いました。かつての映画館は、みな個性が強かったわけですが、「丸の内東映」(旧名称)は、当時からあり、その時代の匂いが残っている現状唯一の映画館ですからね、閉館って聞くとすごくさびしい。近年のシネコン時代になって、映画館のインフラがいかによくなっても、この劇場で映画を観るシズルっていうのは、ほかには代え難いものがあると思います。また、開館から65年だそうですが、その歴史のうちの50年は自分も通っていたので、自分が映画を観はじめたころからあった映画館が、これですべてなくなってしまう、思い出の最後の砦がついになくなる、という感じです。

――「丸の内 TOEI」は東京の映画史、そして銀座の景観史的にも3つの意味で「最後の映画館」だと思います。ひとつ目は「映画全盛期からある最後の大劇場」ということ。部分改装はありましたが、いまでも館内には昭和の大映画館のたたずまいがひしひしと感じられます。
樋口 往時の映画館は皆そうだったと思いますが「丸の内 TOEI1」も、いまの感覚からすると無駄に大きい(笑)。ものすごいタッパがあって、シネコンでは考えられない、ライヴのホールのようなあの天井の高さにまず驚かされる。それも銀座の一等地でです。でも、昔の映画館ってああなんです。しかも、1階席に張り出した2階席がある。そのくせトイレへの通路は、昭和の大人サイズなので、頭をぶつけるくらいに天井が低い(註3)。要するに、最盛期にはそれだけ多くの観客を受け入れる必要があった。
丸の内 TOEI1の2階席から1階席を見下ろす。1〜4階の吹き抜けという昔ながらの高い天井が魅力だ。
丸の内 TOEIの2階の座席表。2階席だけでシネコンの1スクリーン分相当の席数がある。
――シネコン以前の映画館は、ほとんどの座席は自由席(註4)で混むと立ち見もOKだったので、映画全盛期には通路もぎっしり人で埋まり、場内の人があふれて、ロビーと客席の間のドアが閉まらなかった。また、映画の看板やチケット売り場も屋外にありましたから、巨大な看板の迫力に釣られたり、チケット売り場に大行列ができていると、ついふらりと入ってしまったり。

樋口 シネコン様式になって、映画館がビルの中に入り、そういった昭和の映画館の名残りがどこの劇場もなくなってしまったので、いかにいい設備をシネコンが誇るようになっても、私は頑として「丸の内 TOEI」に行き続けたっていうところがありますね。思い出すのは『スモーク』(1995)を撮ったウェイン・ワン監督が、2016年に『女が眠る時』という映画を日本で撮りまして、その撮影や仕上げのオフの時、私がしょっちゅう話し相手として呼ばれて日本映画における性表現などについて(笑)長話しをしていたんです。彼は当時、有楽町のペニンシュラに宿泊していたんですが、たまに近所に映画を観に行くんだといっていて、お気に入りが「丸の内 TOEI」か「有楽町スバル座」でした。理由は「こんなクラシックな、『映画見てるぞ!』って雰囲気がただよう映画館は、もう香港にもないから貴重なんだ」と(笑)。あの時は、我が意を得たりと思いましたね。
3月下旬から5月8日まで行われたプレ閉館イベント「昭和100年映画祭」では『犬神家の一族』『新幹線大爆破』『砂の器』など、邦画各社の名作が連続上映された。現在は最終イベント「さよなら 丸の内TOEI」を開催中。7月27日までに東映の歴史を彩った全97作が連続上映される。
閉館前のイベント上映「昭和100年映画祭」のチケット売り場前。
註釈
- 註1 映画全盛期
ここでいう全盛期とは、日本の映画人口最盛期だった1958年(この年の映画人口は11億2745万人。ちなみに2024年は1億4444万人)前後を指す。「丸の内東映」の開館は、その2年後の1960年。TV放送が全世帯に行き渡っていなかったこのころは、映画(特に邦画)がTVドラマのように日常的に見られていたためこのように多かったが、1980年以降の映画人口はほぼ横ばいである。 - 註2 東京最後の映画館
ほかにも昭和から残る映画館は幾つか健在だが「丸の内 TOEI」ほど、当時の面影と威容を誇る映画館は存在しない。 - 註3 頭をぶつけるくらいに天井が低い
通路に限らず、当時の劇場は多くの観客をさばく必要があったため、現在からするとかなり窮屈に設計されていた。「丸の内 TOEI」もオープン時は847席(立見も含めると1500人収容とうたわれていた)。現在は509席。 - 註4 ほとんどの座席は自由席
ロードショー館内の一部には特別料金を取る指定席があったが、自由席が基本。入れ替えもなかったため、気に入った映画を何度も観ていく客も。