丸の内 TOEI閉館記念
さらば昭和の大映画館! いまこそ昭和の映画館を語ろう!
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松竹の映画街、テアトル東京の迫力
――東銀座のほうは、歌舞伎座の奥の「松竹会館」(松竹本社ビル)を中心に、松竹の映画街がありましたね。ここで一番大きい映画館だった「東京劇場(東劇)」(1353席)は1972年に閉館して、樋口さんが通われたころは、現在の新館(600席)に変わっていました。

樋口 ですから私は「東劇」には思い入れはなくて、松竹の映画街だと、一番通ったのは「松竹セントラル」です。私が通い始めたころは、松竹と東急レクリエーションが組んで「松竹セントラル」「渋谷パンテオン」「新宿ミラノ座」の3館で、都内3館の同時拡大ロードショーを始めた時代で、この3館をファンは略して「セ・パ・ミ」と呼んでいました。この3館が大型映画館の典型みたいなドンとした劇場で、東宝の「有楽座」、「スカラ座」、「日比谷映画」に匹敵するスケールがあった。だけど映画街全体の雰囲気は、東宝とはちょっと違っていました。日比谷のソフィスティケートされた感じに対して、東銀座の松竹の映画街は歌舞伎座もあるせいか、少し「和」の雰囲気があったんです。「和」といってもモダンな「和」。銀座の映画街が流行る前の浅草興行街を思わせる雰囲気でしょうか。だから当時面白かったのは、晴海通りを歩いて10分ほどのふたつの映画街が、なんでこんなに雰囲気が違うんだろうっていう。しかも、その中間地点には『エクソシスト』を観た「丸の内ピカデリー」や、また別のカラーの「東映会館」があるという(笑)。
昭和30年(1955年)ごろ。松竹映画街のある東銀座から、東宝の日比谷映画街に向かって歩く途中の晴海通りの風景。中央は「日劇」。その右側(手前)は「丸の内ピカデリー」が入っていた朝日新聞本社ビル。(写真協力:公益財団法人川喜多記念映画文化財団)
同じ場所には現在「有楽町センタービル(有楽町マリオン)」が建つ。東宝側の「TOHOシネマズ日劇」はなくなったが、手前の朝日新聞=松竹側には今も「丸の内ピカデリー」が営業中。「丸の内ピカデリー1」は令和7年現在、東京の映画館最大の座席数(623席)となっている。

樋口 さらに京橋のほうに行くと、これも思い出深い大劇場「テアトル東京」があったんです!ここはもう独特な設計で、シネラマ用にスクリーンがグワ〜んと湾曲していて、前方の席に行くと映像に包み込まれるような迫力がありました。だから、もう場内に入った瞬間から気分がアガるんです。IMAXのラージスクリーンに通い慣れているお客さんが「テアトル東京」に行っても、絶対に興奮すると思いますね。
「テアトル東京」は、東京、大阪、名古屋に各1館づつしかなかったシネラマシアター(註12)で全席指定席制。現在では、映画館の座席予約は当たり前だが、この当時は指定席を買うには映画館へ直接電話予約か劇場の窓口で買うしか方法がなかった。

樋口 ほかにも、大きなロードショー館には1階のど真ん中とか、2階の前の列とかに指定席A、指定席Bというのがありました。それでもほとんどの席は自由席で、指定席で観るのは特別でした。高いから学生の身分では普段座れないんですが、映画館によっては土曜の初回だけ指定席が開放されていたんです。だから土曜の朝は、いの一番にロードショー館の列に並んでいました。早い者勝ちで指定席に座れますから(笑)。
――当時のパンフレットなどをお持ちいただきました。
樋口 現在のものと変わらない普通のパンフレットに見えますけど、表紙に「有楽座」って刷ってあるんです。ほかにも「日比谷映画」、「スカラ座」、「丸の内ピカデリー」、「テアトル東京」などのロードショー館は、パンフに映画館名を刷って販売していました。上映する作品にも文芸専門とかアクション専門とか、館ごとにカラーがあったので、なおさらどの映画館で観たかというのが記憶に残って、こういうパンフで映画館の印象ごと思い出になったんです。そしてそのカラーに合った形でおもてなしするっていう。そういう時代だったんですね。当時は、映画好きが集まると「俺は「丸の内ピカデリー」が好きだ」「いや、俺は「有楽座」だ」って話になるんです。いまって、そういう発想あまりないじゃないですか。でも当時はその気持ちはよくわかって。なんか好きな映画館の入口をくぐったところから、もう映画体験が始まってるような、そういう演出を感じました。
註釈
- 註12 シネラマシアター
1950年代前半からシネマスコープ、ビスタビジョン、70ミリフィルム上映など、世界的に大型スクリーンのブームが到来。その極めつけといえるのが、3台の映写機から投影した映像を横に繋げて上映する「シネラマ」だった。1955年に東京の帝国劇場と大阪のOS劇場に、その後帝国劇場の建替計画にともない1962年にテアトル東京にも導入されたが、3台上映の技術的困難さから、やがて70ミリ映写機1台のみを使った「スーパーシネラマ方式」に切り替えられた。1964年には、名古屋の中日シネラマ劇場にも導入された。
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