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丸の内 TOEI閉館記念
さらば昭和の大映画館! いまこそ昭和の映画館を語ろう!

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封切館というより、私にとっては「映画の学校」でした

――ふたつ目は「都内最後の直営邦画封切館(註5)」だということです。かつては邦画封切館、洋画封切館がわかれていて、邦画館は各映画会社の個性がハッキリと出た庶民的な映画館でした。なかでも「丸の内 TOEI」は東映のメイン館です。ここで観た作品の思い出などはいかがですか?

樋口氏所有の『飢餓海峡』パンフ、プレス、原作などのコレクション。

樋口  「丸の内東映」は、時代劇ややくざ映画で一世を風靡した東映の封切館ですが、私がはじめて行ったのは1975年ですから、そうした全盛期には間に合っていないんです。その後、やくざ映画に新風を吹き込んだ『仁義なき戦い』初期シリーズ5部作(1973-1974)などの実録路線も下火になってきて、次になにをやればいいか? という東映映画の模索期です。いまでは、あまり知られていませんが、昼間は東映の封切番組をやりつつ、オールナイトで内田吐夢監督の『宮本武蔵』5部作(1961-1965)や『仁義なき戦い』なんかをかけてもいました。まだホームビデオがない時代ですから、これはすごく貴重な上映です。名画座的な番組をあの大画面で観られるんですからね。それと印象深いのは、その年の10月に『飢餓海峡』(1965)の完全版(註6)を上映してくれたことですね。これは、初公開時に長すぎるといって、ほとんどの映画館では短縮版が上映されたという因縁の作品。それを約10年ぶりにノーカットで、東京は「丸の内東映」1館だけで限定公開だというので、もう大感激して観に行きました。私にとって、ここはちょっとした「映画の学校」だったんです。

『新幹線大爆破』(1975)丸の内東映のチラシ。

そして1975年で記憶に残るのは、リブート版がNetflixでリリースされて話題の『新幹線大爆破』(1975年7月5日封切)ですね。夏休み少し前に封切られたこの作品を期待して観に行ったら、本当に大興奮! ところが全然お客が入っていない。このころの「丸の内東映」は、いつも空いている印象でしたが、見事にガラガラなんです(註7)。劇場を出て、すぐ下の丸の内線銀座駅のホームで、ひとり義憤に駆られていたのを昨日のことのように覚えています(笑)。ところが、フランスで公開すると見事に大ヒットして、今度はそのフランス語版を、日本での封切りから1年半後に凱旋公開することになった。『新幹線大爆破』は、1976年の初めにキネマ旬報ベストテンの読者選出1位も取っていたんです。「よし、今度こそ満員になるだろう」と意気揚々と観に行ったら、またもやガラガラ。そんなことも「丸の内東映」と共にある思い出です。

大ヒットした『トラック野郎』『柳生一族の陰謀』

樋口  一方で、大入りになってびっくりしたのが『新幹線大爆破』の後に上映された『トラック野郎 御意見無用』(1975年8月30日封切/シリーズ第1作)です。当時の私は、なんでこの映画にこんないっぱいお客が来るの? と思いましたが(笑)、いかにも東映っぽい、お家芸だなという映画でね。もう娯楽てんこもりで、あのちょっと粗野な感じが、東映の映画館にすごく似合う。気分が上がるんです。そう考えると『新幹線大爆破』は、東映にしてはスマートすぎたのかな? と。逆に『トラック野郎』がシリーズになって、以後のお盆と正月にずっと公開されていくのは納得がいくんです。

――ほかにいわゆる東映の定番的な映画で、ご覧になって印象に残っている作品はありますか?

樋口  『柳生一族の陰謀』(1978年1月21日封切)です。本格的な東映時代劇はしばらく作られていなかったんです。そこで「東映時代劇の復権を」とテーゼを掲げ、大宣伝して公開したのですが、「丸の内東映」のキャパシティだから大丈夫だろうと思って呑気に構えて行ったら、満員札止めで全然入れない。あの時は、作品のパワーもさることながら「我につくも、敵にまわるも、心して決めい!」という関根忠郎さん(註8)のコピーもすばらしかったし、ポスターも無為にオールスターにオンブということではなく、スターの顔のパーツを企画に合わせて大胆にコラージュしたもので、なんだか企画への自信が噴出している感じだったんです。「丸の内東映」の記憶をたどると、単なる映画鑑賞というよりも、興行や宣伝の勢いに自ら飲み込まれに行っていた感覚があるのですが、この時が一番それを感じました。

『宇宙からのメッセージ』チラシ。東映マークの上に「Space Sound 4」とうたわれているが、はたして普通の4チャンネル音響だったのか?

樋口  それで、『柳生一族〜』を観てみたら、ややSF的というか実に奇想天外な結末の時代劇だった。そして、たった3ヶ月後には同じ深作監督の『宇宙からのメッセージ』(1978年4月29日封切)という映画が公開。こっちは宇宙モノのSFなのに、物語は完全に「八犬伝」で時代劇(笑)。本当にでたらめだし、はっちゃけているし、大好きな映画です。そしてこの時に東映は「スペースサウンド4」と銘打って主要封切館をステレオ音響対応にして『宇宙からのメッセージ』を上映する、と宣伝を打った。当時は「センサラウンド」とか「サーカムサウンド」とか、ハッタリめいた音響システムが洋画で流行っていましたからね。ところが後年、この「スペースサウンド4」の磁気マスターを探しても見つからないらしい。実は『宇宙からのメッセージ』の頃は製作の東映にも東北新社にも4チャンネルのダビングが可能な施設はなかったはずなので、客席を囲むようにスピーカーを増設はしたものの、なんとモノラルのソースをパラで流していたのではないか(爆笑)という風説がありまして。仮にそうであっても「スペースサウンド4」と言い張っていた東映の興行魂は好きですねえ(笑)。実態は不明ですが、当時シュノーケルカメラを使った特撮も音響もけっこう迫力があったのは覚えています。

――地下の直営館「丸の内 TOEI2」は、そのころは「丸の内東映パラス」といって東映洋画部配給作品を中心に、どちらかというとキワモノ作品を上映する館(註9)でした。

当時の新聞にあった映画案内欄。

樋口  その中には結構、洋ピン(外国のポルノ映画)もありましたね。ある日、「丸の内東映」の前を通ったら、東映会館の壁面にデカデカと女性の裸体の絵とともに「しゃべる○○○/プッシートーク」と書いてある。よく見るとそれが映画(註10)巨大垂れ幕で。銀座のど真ん中でこれは大丈夫なのか? と思いましたけれど、やくざ映画とか不良性感度いっぱいな作品が地上で、地下では洋ピンという銀座の街との異様なミスマッチ感も、いま考えるとこの劇場らしいところでしたね。パラスで観て、忘れられないのは『スナッフ/SNUFF』(1976年6月26日封切)というアルゼンチン映画です。撮影で実際に人を殺してしまいました! という触れ込みのR指定の殺人映画。中学生の私は、年齢を偽って潜り込んで観ましたが、これが気が遠くなるほどつまらないヤラセ映画でした。なんかけったいなモノを見ちゃったな、というモヤモヤがずっと残る作品で。当時はこういったキワモノ映画が結構あったんです。

東映会館の思い出

――3つ目の「最後」は、「大きな改装をせずに昭和のたたずまいを残し、銀座の風景のひとつであり続けた」ということです。ロビーなどは改装を繰り返していますが、東映本社ビルは開館当時のままであり続け、銀座に残る貴重な昭和の風景でした。それが壊されてしまう残念さもありますね。新しいビルに建て替えられ、今後は商業施設になる予定だとか。

樋口  私のような映画関連の書き手として仕事をしてきた人間にとっては「東映会館」が消えて、「丸の内 TOEI」と同時に東映本社がなくなってしまうことも残念です。下の劇場とは対照的にやたらスクリーンが小さい(笑)東映の試写室にはよく通いましたし、自分の監督した映画をかけてもらったこともあり、このビル全体に対する郷愁がありますから。東宝や松竹など、邦画各社がオフィスを現代風に変えていく中で、東映はかたくなに変えなかったわけで、あの場末の不動産屋みたいな雰囲気の(笑)昭和感のあふれるオフィスがもう見られないなんて! それに、あのいきなりガシャンと閉まる旧式のエレベーターがなくなるのも残念。時々、私の目の前で岡田裕介会長までエレベーターにはさまれて、社員さんうつむいてましたから(笑)。ああいったオフィスの風景も、昭和時代の銀座の文化だと思います。そんなおおらかなところも映画業界的なムードがあって、いまでもふと思い出すんです。

註釈

  • 註5 都内最後の直営邦画封切館
    邦画各社が撮影所をフル稼働させてプログラムピクチャーを量産していた時代は、年間に相当数の番組があったため、邦画系映画館はその映画会社が直接経営し、洋画系劇場とわかれていた。
  • 註6 『飢餓海峡』(1965)の完全版
    183分と長尺になったため、初公開時は内田吐夢監督の意に反して16分のカットが行われ、ほとんどの映画館で短縮版が公開された。数々の映画賞を得たあと、完全版があらためて公開されたが、これを観られるのは1975年当時、貴重な機会だった。
  • 註7 見事にガラガラなんです
    『新幹線大爆破』は、ハリウッドのパニック映画ブームを当て込んで製作されたが、この作品の封切り1週間前に同じパニック映画大作の『タワーリング・インフェルノ』が日本公開され、空前のヒットを記録。そのあおりを受けたとも分析された。
  • 註8 関根忠郎
    1956年東映に入社。1960年代初頭から1990年代後半まで宣伝部で東映系邦画の惹句(コピー)を考案し、数々の刺激的コピーで「伝説の惹句師」の異名をとった。著書に「惹句術 映画のこころ」「関根忠郎の映画惹句術」がある。
  • 註9 キワモノ作品を上映する館
    東映洋画部は急激に映画人口が低下する中で、新しい収益源を求めて1972年に東映社内に創設された。1970年代は世界的ポルノ映画のブームがあり、手堅く稼げる洋ピン作品の配給が多かった。新聞の映画案内の「丸の内東映パラス」の欄には、タイトルではなく「成人洋画封切」と記されていたが、1975年には『悪魔のいけにえ』や『処女の生血』なども公開されている。
  • 註10 『しゃべる○○○/プッシートーク』
    1975年、クロード・ミュロ監督によるフランス映画。

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