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「いまふたたび、森田芳光を感じる意味」
〜映画監督 森田芳光を知らない人にこそ、観てほしい〜

2011年12月に世を去った映画監督・森田芳光が、没後14年の2025年、ふたたび脚光を浴びている。
この8月から東京・国立映画アーカイブで「映画監督 森田芳光」と題された展覧会が開かれ、予想を上回る反響を集めている(会期は11月30日まで。11月23日までは展覧会に併せて上映会も同時開催される)。展示会場には、ポスターやシナリオ、小道具といった映画の資料の展示のみならず、森田監督の別荘の書斎が、美術スタッフの手によって再現され、漫画雑誌などを含む実物の蔵書やレコードコレクション、子どものころからの手書きアイデアノート、使用していた8ミリカメラなどが置かれ、監督その人の温もりを感じられる空間になっている。
これまでの映画展示とはひと味違うこの展覧会を取材して、森田監督夫人で本展の企画にたずさわった、ニューズ・コーポレイション(森田芳光事務所)プロデューサーの三沢和子さんにお話をうかがった。

Index

森田芳光という才能の出現

三沢和子インタビュー(その1)

展示についてのインタビューをお伝えする前に、前章として、森田芳光という監督について、ふれておきたい。

 

森田監督といえば、1970年代に続々と登場した自主映画出身監督のなかでもひときわユニークな存在だった。日本大学芸術学部在学中に8ミリ映画を撮りはじめたが、在籍していたのは映画学科ではなく放送学科だった(のちの本文中に登場する数々のアイデアノートは、映画のアイデアのみならず、TV番組やラジオ番組、CMや雑誌、ギャグのアイデアまで多岐に渡る)。大学での最初のサークル活動も、映画研究会ではなく落語研究会。映画一筋というわけではなく、まさにアイデアマンだった。1970年から1976年の間に撮られた8ミリ映画作品の数々は、具体的なストーリーのない、日常のなにげない風景と音を巧みなコラージュで構成した、まさに実験映画。だが、自主上映会を開くたびに、作品の持つ不思議な魅力でファンを増やしていった……。

 

――三沢さんはこのころに、森田監督の映画に出会われたわけですが、当時の森田映画の特異性をどのように感じていましたか?

三沢和子(以下、三沢)  デジタルでみんなが映像を撮れてしまう現在から見ると、あの1970年代後半の自主映画ブームというムーブメントはなかなか想像つかないかもしれません。それまで映画監督への道は、ほぼプロの撮影所で助監督を長年務めるという道しかなかった時代に、8ミリや16ミリで個人映画を撮っていた世代から新しい感覚の映画監督が生まれたわけですから。自主映画の作家は、個人的に上映会を開くことで、一部の学生や若者からは注目を集めていましたが、映画界を含めた芸能界全体からは振り向かれることがない存在でした。私は、高校時代からヌーヴェルヴァーグやATGの映画を観るのが好きでしたが、大学のときに友人に誘われ、森田の『天気予報』(1971年)、『工場地帯』(1972年)(2作とも今回の上映会でも特別上映される)などを観て、衝撃を受けたんですね。でも、私が一緒に手伝うようになった『ライブイン茅ヶ崎』(1978年)の時に、本人がいつまでも実験映画みたいなのだけではだめだと。このころ、明確にプロの映画監督を目ざして、劇場映画を「こいつに撮らせてもいい」と思わせるような作品を志向して初めて撮ったのが『ライブイン茅ヶ崎』なんです。実験性とか作家性もすごくありながら、ある意味で淡々と若者の日常を描いていて、当時の日本映画にはない新鮮な映画でした。

 

『ライブイン茅ヶ崎』は、「茅ヶ崎(森田の故郷でもある)で生まれ育った二人の青年と、そこに東京から通ってくる彼女を主人公にした青春映画」だ。こう書くと味気なく聞こえるが、なかなか進展しないストーリー、もどかしいほど噛み合わない会話が、まさに「ライブ」でリアル! それを音楽DJにも通じる巧みな映像・音響の編集とリズムでひきつけつつ、まるで湘南の空気そのもののように、のほほん! と見せていく。筆者も当時「第2回自主製作映画展(現:ぴあフィルムフェスティバル)」(於/池袋文芸坐)で初見したが、「こんな映画、いままで見たことない」と思わせる自由な楽しさを感じたものだ。

 

――この『ライブイン茅ヶ崎』のポスターは、大友克洋さんが描いてらっしゃいますね。今回、展示してある自主映画時代の上映会のチラシには、夏目房之介さんが描かれたものもあります。そのころから、大友克洋さんや夏目房之介さんとも交流があったのでしょうか?

大友克洋のイラストによる『ライブイン茅ヶ崎』のポスター。

三沢  夏目さんは青山学院大学にいらっしゃったころから、すごく森田の映画を応援してくださって、ずっと友達だったみたいです。 ですから初期の8ミリ作品のチラシの絵も、夏目さんが描いていて、今回展示でもそれを飾らせていただいています。森田は、漫画がとにかく好きで、今回も書斎展示にたくさん飾っていますが、『ガロ』(長井勝一と白土三平が1964年に青林堂で創刊した漫画雑誌。林静一、つげ義春、内田春菊、杉浦日向子ら、独自の作家のセレクトで、サブカル系漫画の発火点として人気を博した。2002年廃刊)なんかも全部持っていたんです。それで大友さんをすごく早くから見つけて、大好きだったんですね。それまであまりファンレターを書いたことがなかった森田が、大友さんにはファンレターをお出ししたら、それは大友さんがいただいた初めてのファンレターだったということで、とても喜んでいただいて、かつて新宿の紀伊国屋書店の辺りにあった喫茶店でふたりで会った。そのうち渋谷の円山町にあった森田の実家に大友さんがいらして、いろいろレコードを見たり本を見たりしながら、大友さんが『ライブイン茅ケ崎』のイラストを描いてくださっていたのを見た覚えがあります。いま思うと大変なことなんですけれど。

 

このころ、作家の片岡義男がいち早く『ライブイン茅ヶ崎』を観て、「僕にとっての日本映画の最高傑作です」と絶賛し、角川春樹プロデューサーに観るようにすすめたことはよく知られた逸話だ(後年、角川プロデュースの『メイン・テーマ』で片岡と組んだ森田が、対談時に「大事なのは、僕と片岡さんの正義感は一緒だということです。何が正義感かというと、自然を愛していること。それは雲の流れであり雨であり、あるいは道路であり……オブジェを愛しているわけです」[月刊バラエティ 1984年4月号]と語っていたのが実に印象的だった)。だが角川氏の反応は「8ミリじゃ話にならない。35ミリ(つまりは映画館でかけられる劇場映画)で持ってこい」だった。これが35ミリを撮る契機になったのかどうかはわからないが、翌年に森田はプロデビュー作『の・ようなもの』の脚本に着手。内容は、大学時代に落語研究会にいた経験を生かした、芽の出ない新人落語家を主人公にしたほろ苦い青春映画。当時、自主映画界からプロデビューした同世代の監督たちが、いざ劇場映画を撮ると映画会社からいろいろと口を出されるのを見聞きしていた森田は、すべての製作費を自分で集め創作の自由度を確保し、自主映画のスタイルで『の・ようなもの』を撮りあげて、配給してくれる会社を自ら取りつけた。
こうして、できあがったデビュー作『の・ようなもの』(1981年)は、まさに『ライブイン茅ヶ崎』で見せた森田イズム全開の快作となったのだ。

 

「映画監督 森田芳光」の誕生である。

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