時の旅人 監督・片渕須直の現在位置
片渕須直監督インタビュー PART2『この世界の片隅に』 制作のきっかけ

©2019こうの史代・コアミックス / 「この世界の片隅に」製作委員会
――2016年に『この世界の片隅に』が公開され、多くのファンの人たちの力で大きく広がった作品になりました。
片渕 2010年の夏にこうの史代さんの描かれた漫画を原作にして映画を作ることになり、企画として動き出したわけです。僕自身のことでいうならばかれこれ14年も経ちます。『この世界の片隅に』は、『マイマイ新子』から直結している感じが自分の中にしていて、何かひとつの旅をずっと続けているみたいな感じもあります。
『マイマイ新子と千年の魔法』とは、昭和30年の山口県防府市の街とか、そのさらに千年前の同じ場所というのを、どれだけ具体性を持って、あるいは感覚的なものを伴って自分の中に取り込めるか、取り込んだものを吐き出して描けるか、ということだったんですね。
こうのさんの『この世界の片隅に』読んだら、何か同じことをやってらっしゃる方がいるんじゃないかという気持ちになってしまって。
さらにいうと、『マイマイ新子』には新子のお母さんである長子さんという人が登場するんですが、彼女は戦争が終わる昭和20年8月以前にすでに新子ちゃんを身ごもっていた。新子は昭和21年生ですが、終戦直後のベビーブーム世代ではなく、その前からお腹の中にいた人なんです。すると、長子さんを僕たちはのほほんとのんきそうなお若いお母さんとして描いていたんですけど、10年さかのぼると、もんぺを履き防空頭巾かぶって空襲の不安の中で生活していたのか、と思って。戦時中ってすごくまなじりを決してみたいなところがあったのですが、考えてみれば人間もあんなにたくさんいたら、みんながそうだったわけでもないのだろうな、本来的にのんきだったりのどかだったりする人も巻き込まれていたんだろうな。そう思えてきて。今度はそういうところから戦時中の時代をスケッチしたくなった。前後の時代とはまるで不連続な戦時中という時代、断層の向こうにある時代に紛れ込んでいける手段がそこにある、と思ったわけなんですね。長子さんの昭和20年を描くことって。心の中に抱いたそんなプランを防府市で喋ってみたら、実際にあそこの発掘をやられていた、防府市文化財団郷土資料館館長(当時)の吉瀬勝康さんが、「こういうのがありますよ」と教えてくださったのが、こうのさんの『この世界の片隅に』だったんですね。
――本当につながっていたんですね。

片渕 『マイマイ新子』で新子と貴伊子が遊びながら走っていた道がいわゆる西国街道と呼ばれる道で。『この世界の片隅に』の冒頭で、子どもの頃のすずさんが迷子になってウロウロしてる道が、そのずっと東の西国街道なんです。同じ道の上なんですよ、彼女たちがいるのは。
――こうのさんご自身がやはり調べ尽くして原作を描いていると思うんですけれども、監督はそれをどのように受け止めたんでしょうか?
片渕 こうのさんは、ご自分は歴史が苦手だとおっしゃっていて。だからこそ、頭の中に入って固まっている知識がなくまっさらで、一から調べ直してゆく、ということだったんですね、「既成概念になってることを崩しながら、その時代の本当の姿を見ていく、発見していく」ということでもあり、すごく正しいやり方だなと思いました。
僕らもまた、『マイマイ新子』のときに、山口県防府市という1回も行ったことがない街について、歴史をさかのぼっていきました。その当時の街の写真を探して、一枚の航空写真が出てきた。見ると確かに青麦の畑が広がっている。この写真を見ながら、写っているこの小学校は何年に開校したのか、と年代を特定できる要素を見つけていって、防府市市制20周年記念のために飛行機を飛ばして撮った昭和31年の写真らしいとわかってきた。細部のひとつひとつを眺めることによって、ディテールがひとつ大きなものを形作ってゆく。こうのさんが、『この世界の片隅に』で昭和という時代を描いた方法もこれに近いような気がしました。
一方でこうのさんは広島のご出身で、呉にも住んでらっしゃったことがあって、すごく土着的な部分も漫画の中にある。それは自分の中にはない。あらためて少し別の視点を据えて、広島や呉を見つめてみる。そうしてえられたものに、こうのさんの持ってらっしゃるものを組み合わせることで、さらに広がっていくんじゃないかと思ったんです。
すずさんが洗濯物を干す場所があって、その裏に段々畑がある。こからは自分が住んでる家も見えるし、ちょっと見る向きを変えると、呉の軍港まで一望できてしまう。日常生活の舞台と、日本最大の軍事基地が同じフレームの中に入る。その異様さを描けるのじゃないかなと思うようになったわけなんです。
主人公が見たはずのものを味わう

片渕 実際に現地へ行ったときには、ちょっとまた別のこともやっていました。昭和20年の3月19日の艦載機空襲のときに、軍港の方から停泊している日本の軍艦が高角砲を撃っているんです。あの角度で撃っと、空のあの辺りでそれは炸裂する。炸裂した砲弾のの破片はどこに落ちるんだろうと放物線を頭の中で描いていて。後で調べたら、本当にその放物線の延長した上に弾片が落ちてきたという記述が出てきて。空襲を受ける土地の空では、自分の側の軍艦が撃った大砲の弾片とかまで飛んでいる。それが空のあの辺りで弾けているんだな、などというのを、また味わってしまったわけなんです。
すずさんが住んでいる場所に自分も立って味わってみたいと思ったことには、また別のこともありました。呉から広島市までは約20kmあります。20km向こうで原爆が爆発して、きのこ雲が立値上がる。高さ1万6000mまで立ち昇る。それはすずさんからどうみえたのか。1万6000m:20kmで、仰角40度ぐらいになるんですね。40度の角度見上げるものは、ほとんど頭の上にのしかかるみたいに思える。広島のキノコ雲が呉では沿う感じられたのだろうな、というのを実際の呉のすずさんの家のあたりで思い描いていたわけです。方位磁石なども持って。すると次には、朝の8時台に爆発したけれどきのこ雲はいつまであったんだろうなんてことが気になって。そういうことが書かれてたものを見つけなきゃ、となってゆく。
「画」に描き出す責任
――いわゆる普通の学者や歴史家と決定的に違うのは、絵にしてその世界を作り出さなきゃいけないということですよね。
片渕 そうですね。『マイマイ新子』のロケハンの最初は、映画に登場するバスの色は何色だったのか、見つけなきゃ、というところから始まっています。ロケハンの最初の時に防長交通に行って「カラー写真ありませんか?」と聞いたら、写真はないんだけど、「瀬戸内海の海の色を映した」ということをベテランの方に教えていただいて。「ブルー系なんだな」と。これはもう瀬戸内海の海の色に塗らなきゃ駄目なんです。そういうことが大事だった。
『この世界の片隅に』では、この時代に着ている服は何色なのか。これから戦争が始まるような時に、人が着ているものの色って変わっていくのだろうか。最後に和服はもんぺに改造されちゃうんだけど、それはどういう色の着物だったのだろうか。昭和16年にアメリカと戦争を始めた時点というのは、中国とはもう4年も戦争をしていた時期でもあり、一時期地味になっていた和服の柄の流行が、また結構派手なものに変わりかけていたんです。ただ、総体的には地味な紫みたいな色もたしかに多かったり。あるいは、当時の呉には洋服屋さんが紺色の生地をたくさん持っていた。海軍の軍服用の生地ですね。それで洋服を仕立てた市民の人も多かったらしくて、呉はよその町より紺色の背広を着ている人が多かったのだ、と。
本当に呉って市民生活が海軍と一体化していたんだなということが、服地の色からわかっていく。
本当に微細なことまで、みんな関係してひとつの世界を編み上げている。どんどん細いことににも目を配るようになっていくんです。
――映画に登場する、大正屋呉服店の向かいにあった大津屋モスリン堂の写真がどこにもない。生きてらっしゃる方の記憶をたどってしぶとく粘って形にされていたことを、すごくよく覚えています。

©2019こうの史代・コアミックス / 「この世界の片隅に」製作委員会
片渕 大正屋呉服店は、爆心地から110mしか離れてなかったにも関わらず倒壊せずに現存する建物です。3階建てであるのを画面に収めようとすると、ある程度引きにせざるをえず、手前にある建物までどうしても画家なければならなくなるんですね。ところがその手前の店――大津屋モスリン堂さん――の写真がない。こんな形のお店だったかなというのを描いて、広島のとある場所に掲示してたんですね。そしたら、それを見た婦人たちの間で「これあなたのうちじゃない?」「私のうちじゃないわ。となりよ」みたいな話があったとのことで。それで、お隣のお店の娘さんだった方からお話を聞くことができた。もうひとり同じような方が現れて、合計2人の方に「ここはこうだった」という記憶をたどっていただくことができました。。さらにある方が、大正屋呉服店の窓のところに真鍮の手すりがあるんだけど、子どもの頃それにもたれたことがあって、背中の感触がまだ残ってるとおっしゃって。それは画面の中では、子どもの頃のすずさんがもたれる手すりです。ああ、すずさんは金色の真鍮の手すりにもたれていたのだったか。子どもの頃の記憶って、全体を伝えるというよりも、背中の感触などのように体感的なものであることが多いのですが、それは大事にしたい部分なんです。

©2019こうの史代・コアミックス / 「この世界の片隅に」製作委員会
そのうちに、とうとう大津屋モスリン堂さんの写真が出てきた。そレまで話に聞いていた「普通の木の看板」ではなくて、「アールデコ?」みたいにちゃんとデザインされたものであることがわかったり。大津屋さんは、息子さんがご存命だったのですが、お話を聞く機会がえられる前に亡くなってしまわれた。でも、1枚だけ残っていたお店の包み紙があって、それをいただいたくことができたんです。包み紙には、店名のロゴがすごくモダンな感じでデザインされていて。看板にもロゴで店名を描くことにしました。
大津屋モスリン堂さんの写真はおもに、広島の平和記念資料館の学芸員だった菊楽忍さんが、発見されるたびにこちらにも送ってくださって。映画が完成してもなお送ってきてくださった。そんなふうに街角にあったひとつの店舗への「理解」を重ね続けています。
制作途中状況を発信する
――映画制作中の2012年前後から広島や東京のイベントでの展示、監督のトークなどが繰り返し行われましたが、制作途上でのそういった試みは、新たな反響とか資料を得るきっかけになったのでしょうか。
片渕 人の縁って、どこから始まるかわからない気がしています。ひとつの縁が始まっていろんな話をし、そのうちに話題の中にまた別の人が登場し、紹介していただいてどんどんつながっていったりするわけです。そういう意味では、まだ広島のことが何もわからなかったときに、広島関係の方に「誰を味方につけるのがいいか」と訪ねたら、二方面からそれぞれ別々に「広島フィルムコミッションの西崎智子さん」という名が出てきました。西崎さんに連絡してみると、ほんとうにいろんなところに人脈持っておられて、広島での手当てをしてくださった。今では僕が毎年参加するようになっている広島国際映画祭のスタッフもやっおられて、つまりいまだに関わりが続いているわけなんですね。いろいろな広がりができて、見知らぬ土地だった広島や呉に友人と言える人たちがたくさんできた。それが自分の世界を広げるのと同時に、描くべき世界も広げていく。そういうことなんだなと思います。
『マイマイ新子』の時には、Twitterで「こういう作品をやってます」って言ったところから、3週間ぐらい経ったら、劇場の座席が9割ぐらい埋まるところまでいったんです。それを、もうちょっと前からやっておけばよかったなという思いもあって『この世界の片隅に』では絵コンテができた段階ぐらいからかな。こういうのを作りたいと思っていると示したポスターを作って。広島に貼ってもらい、Twitterでもその画像を紹介し。そうしたことを映画公開の4年前から始めて。こうした作品を作ろうとしている者がいるのだ、と世間に知ってもらうことが、自分たちがやらなければいけないこと、作品に対する義務みたいになったんですね。作品を周知してもらうところも自分たちの仕事のうちである。そのことによって、結果的に自分の世界も豊かになるし、作品がさらに何かいろんなものを得て、密度も濃くなっていくような感じでした。
日常生活の機微を描くとは

片渕 『この世界の片隅に』は、主婦という立場の人が主人公です。そこはきちんと考えていかなければいけないところであって、主婦とは何をする人なのだろうか、ちゃんと描けなければいけないわけです。戦時中に瀬戸内海の若い主婦だった人が当時書いていた日記を見つけて読んだのですが、衣替えするみたいにお布団を替えないといけないんですよ。夏布団と冬布団をただ替えて押入れにしまうんじゃなくて、そのたびごとに、布団の側をほどいて、中の綿を打ち直して、側はちゃんと洗って、また縫い上げて、それで押入れに入れるなり、蔵に入れるなりしないといけない。それを家族何人分もの布団にしなければならない。「今日は布団を何枚片付けた」みたいなことが日記に書いてあって、戦争のことなんか出てこないんです。しばらくすると、今度は夏布団を出す季節が来てまた同じことを始めて。この方は延々と布団の番人みたいになってるみたいな感じなんです。でも、日常生活とか家事って、本質的にみんなそうだったんじゃないかなと思って。
『この世界の片隅に』でも、初めに考えたのは、すずさんは標高が高いところに住んでいるので、家のまわりでは井戸水は出ないのかもしれない、ということでした。低いところにある井戸までの往復はかなりするはずなんだろうと。漫画で見てもある程度しかわからない。距離だとか、高低差だとか把握しなければならない。そういうところから考え始めて、すずさんの家の立地を考えるようになって、やがて、呉のこの辺りにあったはずと推定を深めてゆきます。そして、現地に行ってその場所を発見するに至るわけです。
それはそれとして、日常生活の機微といったときに、そこに喜びばかりがあるわけじゃなくて、元々家事そのものが大変なものなのだということがある。かつての主婦って、そうしたことに人生を支配されたみたいになってたわけですね。すずさんは、絵を描く右手を失うんですけど、実はすずさんが絵を描くことを封印するのは結婚した時点のことで、以来、絵を描くことなど考えられない生活になっています。今の世の中に生きていたら、絵を描くことがもっと別の方面に伸びていって、彼女の人生を支えていくに違いないんだけども、その時代にあってはまったくそうではなく、趣味としても維持するゆとりがなく、ひたすら家事をするだけの毎日に埋没していく。
すずさんは結婚すると同時に、名字も変わって、それまでの自分を、まず名前から失ってしまっています。結婚して最初の晩に、戦地にいるお兄さんに手紙を書こうとして、新しい名字を書こうとして戸惑う。思い出せない。婚家の住所もよくわからない。すずという下の名前だけが変わらない自分であるというような。彼女は明らかに自分を奪われいる。たまたますずさんが、そういうのを苦にしているように見えない人なので、面白そうにやってるみたいだけど、あれと同じことを自分がやることを想像してみたら、大変ですよね。日常生活万歳ではない。できないよねっていう感じです。