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応援集中!『この世界の片隅に』アニメ化支援クラウドファンディング躍進中! 監督・片渕須直×原作・こうの史代対談

人の心を動かす作品を作ってきた。

ふたりが作った作品から受けた感動や感銘が、形となって顕れた。

そうとしか言いようがない。

こうの史代の代表作『この世界の片隅に』の、監督・片渕須直によるアニメ映画化に向けた「制作支援メンバーズ募集」(クラウドファンディング)が驚異的に好調である。3月9日(月)午前11時からサイバーエージェント社が運営する「MAKUAKE」にて開始されたこのクラウドファンディングは、開始2時間で支援者120人、支援金200万円超を得て好スタート。開始から8日と15時間余りで支援金の当初目標2,000万円を達成。支援者の数も1,700人を超えた。サイバーエージェント社によれば、国内のクラウドファンディングで映画ジャンルでは最高金額。現在も着実に数字を伸ばし続け、3月26日には、支援者が2,000人を超えた。日本国内クラウドファンディング2例目にしてもちろん最速達成。本日4月17日現在で2,217人の支援者により、2550万円を超える支援金を得ている。

『この世界の片隅に』は、太平洋戦争当時の広島県呉市に暮らす主婦のささやかな毎日の物語。戦争を背景にしつつ、何気ない毎日を生きる愛おしさを丁寧に紡ぎ出す作品だ。アニメ映画化の準備は、監督の片渕と制作会社であるMAPPA(マッパ)によって4年前の2011年から始まっていた。しかし、関連グッズの販売など周辺も含めたビジネス的成功が期待できるタイプの映画とは言えないため、出資会社の獲得に難航。制作準備は限定的な状況下で進められてきたという。その後、企画・プロデュース会社のGENCO(ジェンコ)が参画し、企画成立へ歩が進められることとなった。その中でファンの方の支持を形にすることで、制作準備の体制を整えるとともに、出資会社へのアピールも狙い、クラウドファンディングが実施された。

クラウドファンディングの方法も検討を重ねた。「お金を出してくれたらレアグッズをあげる」的な” モノで釣る” 形は、こうのファンにも片渕作品を応援する人たちにも馴染まない。そんなやり方では、これまで応援してきた方にそっぽを向かれてしまう。そこで、単純なクラウドファンディングではなく、「制作支援メンバーズ」の募集という形を作った。参加によって得られるものも、オークションで高値がつくようなレアグッズではない。参加者には原作者・こうの史代がこのために描き下す「すずさんからの手紙」(すずさんは、本作の主人公・北條すずのこと)が送られてくる。作品の主人公から、あなたに送られてくる手紙!作品の世界を大事にすることで、作品を愛し、作者を応援する人たちの気持ちも大事にしようと考案された。

同サイトのコミュニケーションページに寄せられた支援者の声を見ると、こうのの原作マンガを大切にしているファン、『マイマイ新子と千年の魔法』など片渕が作った作品に感銘を受けたファンたちの、心からのコメントが並ぶ。ふたりの作品によって心動かされた読者や観客たちが、この映画を実現させようと支援に参加していることは間違いない。

 

ファンたちが熱烈に支持を表明した『この世界の片隅に』アニメ映画化。

二人の創作者、監督・片渕須直と原作者・こうの史代に今の思いを聞く。

支援に参加して下さる方の「密度」に驚き、感謝しています。


撮影:坂崎恵一

――『この世界の片隅に』のクラウドファンディングが非常に好調です。この反響をどのようにご覧になっていますか。

片渕  大変ありがたいことです。予想以上に熱のこもった応援をいただきました。正直、こんな短期間にこれほど多くの方、多くの金額のご支援をいただけるとは思っていませんでした。「密度」の高さに驚いています。この「密度」は、そのまま期待の大きさなので、しっかりと作っていきたいと思っています。

こうの  やはり、とてもありがたいことです。このマンガは戦争をテーマにしていて、主人公も戦争なんですが、私たちは直接戦争を体験した方と直接交流できる最後の世代だと思っています。こんなにたくさんの人が集まってくださり、(戦争の)体験を共有したいという思いが皆さんにもあるんだ、ちゃんと伝わったんだということがわかって嬉しいです。

片渕  原作が描いてるのは、戦争であり、戦争の中の「普通の生活」であり、いろいろな側面を複雑に持った作品です。そのことがいろいろな方面からの支援という形として表れているんじゃないでしょうか。
ただ、こうのさんの作品のファンはまだまだいらっしゃると思います。そういった方にお声をあげていただけると嬉しいです。

――クラウドファンディングのコミュニケーションページを見ると、原作ファン、片渕監督作品ファン、そして広島、呉の方が多く支援して下さっているように見受けられます。

こうの  広島に思い入れのある方が、広島のマンガとして私の作品を受け入れ支えてくださることも、とても嬉しいなぁと思います。

片渕  こうのさんは広島生まれでいらっしゃるけど、僕は広島には縁がない者でした。ですのでヨソ者扱いされないよう、広島を理解したいと思っていろいろ調べ物をしたりもしました。広島の方々もどんどん支援に参加して下さっていることがとてもありがたいです。

『この世界の片隅に』では、主婦の普通の生活を描きたいと思ったんです。

――こうの先生は、『夕凪の街 桜の国』で戦後の原爆後遺症を描きました。その後改めて『この世界の片隅に』を描かれたのはなぜですか?

こうの  『夕凪の街 桜の国』の読者のみなさんに勇気をいただいたからです。
『夕凪の街』は編集者の提案で描くことになり、その後、今の時代には被爆2世の物語も必要だと思い『桜の国』を描きました。
おかげさまで大変に反響が大きく、驚いたことに広島と縁のない人たちも興味を持って下さいました。自分はそれまで広島の戦災にしか興味を持てなかった。そこで、読者の皆さんのように興味を持って、きちんと向き合って、自分の故郷じゃない場所の戦災を描きたいと思ったんです。場所をどこにしようか考えたとき、方言もわかるし、呉がいいなと思いました。祖母や母の故郷ですし、大好きなところだったので。戦艦大和の故郷、というのもいいなと思いました。

「この世界の片隅に」前編
「この世界の片隅に」後編
双葉社 刊

©こうの史代/双葉社

こうの  『夕凪~』は戦後しか描いていないのに、「戦争もの」と呼ばれました。それが不思議だったんですが、ああ今は「戦争もの」が少ないんだなと気づきました。この国には、もっと戦争を描いた作品があったほうがいいんじゃないか。そういう気持ちがありました。 また、『夕凪~』は、戦後の物語なので、戦時中そのものは描いてない。描き残したその部分を描きたいとも思いました。戦時中の普通の主婦の生活を知りたかったんです。というのも戦争の体験記に描かれている女性の姿と、自分が知っている(戦争を体験した)祖母や伯母の姿はちょっと違うんです。そこをつなげられないだろうか。考えてみれば、体験記を残せているのは書く習慣と時間のある女学生がほとんどなんですね。主婦はいろいろやらなくてはならないから書く時間なんてなかったんです。普通の主婦は戦時中どんな生活をしていたのか。それを知りたいと思い、調べて描こうと思いました。

――毎回、何年何月という形でお話をまとめるスタイルが特徴的ですね。

こうの  あれは、昭和を平成に入れ替えると雑誌掲載月そのものなんです。 昭和19年2月のお話は、平成19年2月の「漫画アクション」に掲載されていたんです。

片渕  連載を読んでいた読者は、主人公のすずさんたちと同じ時間の流れを体験できたんですよね。

こうの  戦争を題材としたマンガは、夏に読み切りで掲載されることが多いので、大体はいきなり戦時中から始まるものが多いんです。私は、連載で、春夏秋冬すべての季節を見て見たい。また戦災の前と後がどういう感じで続いていくのかというのを描きたいという気持ちがありました。
ただあまりだらだらするとテーマがぼやけるので、最初から2年か2年半くらいと尺を決めていました。

――どういう手順で作られたのでしょうか。

こうの  まず初めに年表を作り、描く出来事を考えながらキャラクターをパズルのように動かしました。年表のここで砂糖が配給になったから、ここに砂糖の話いれよう、とかですね。生活の話なので衣・食・住の話題がバランスよく配置することも意識しました。キャラクターがわりと多いので登場バランスも考えると、このへんでそろそろこれをやらなくてはいけないな、とか大まかにストーリィが決まっていく感じでしたね。

――創作する上で難しかったところはありますか。

こうの  大事なのは、間違いが許されない、ということでした。戦争を題材とした作品は、江戸時代や縄文時代と違い実際に体験した方が生きていらっしゃるので、ウソがないように気を使いました。
毎回8Pでオチをつけるんですが、笑えることがあまりないというのもキツかったかもしれないです。
それと、「戦時中の思想」の取扱いですね。「戦時中の思想」は、今の世の中には通用しないものも結構あります。軍国主義を礼賛するような部分など、ある程度否定すべき要素があると思います。そういうところをなるべく入れないように作ることが難しかったですね。
例えば竹やりの練習場面。実際にはチャーチルとかルーズヴェルトの似顔絵が的に貼ってあったりするんですが、それは見えないようにしました。
もっと普遍的なものにしたかったんです。そういう部分を入れてしまうと、この戦争特有なものになってしまい、これから起こる戦争に感情移入しにくくなる。今の我々が感情移入しやすいように、特定の国や人の名前はできるだけ出さないようにしました。

片渕  そのお気持ちはうかがっていたので、同じところはきちんと避けようと思っています。

こうの  難しいテーマだと思いますが、「戦争もの」は、なるべくたくさんの人が語るべきだ、語る口も手も多いほうがいい、と私は思っています。もっとたくさんの人が描いてくれれば、よりたくさんの人に届くのではないかと思います。私もそのひとり、だと思いながら描いていました。それほど興味のない作家さんも必須科目としてこなしていけばいいんじゃないかと思います。描き手によって切り口が違ってくると思うので、より多様なものが生まれるはずです。
今度のアニメーションも、またちょっと切り口の違うものになると期待しています。

片渕  原作者の方は、みな、同じものにしないことを期待される方が多いですね。

こうの  そうなんです。

――発表当時の反応はいかがでしたか?

こうの  編集者みたいな近くの人は、すずさんが原爆で死ぬと思っていたらしいんです。それで、思っていたような残酷な描写やわかり易い悲劇がなくて、ちょっとがっかりされたみたいで…。私としては、生き延びて、「やった!!」という気分だったのですが。

片渕  逆にむしろ単純な悲劇じゃなくて、「その先も生きていかなくてはいけない」ということを考えさせられ、それが勇気づけられます。

こうの  というか「戦争で死ななくてよかった」という思いをこの作品で共有したかったんですね。私は、戦後に生まれた世代として、生き延びて語ってくださる人に対する敬意と、生き延びてくれたことに感謝を表したかったんです。
ただ、東日本大震災の後に、被災され避難所でこの作品を読んだという方が、救われた、とおっしゃって下さり、描けてよかった、頑張った甲斐があったなと思いました。

自分がチャレンジしてみるべき作品だ、と強く思いました。

――片渕監督がこの作品を映画化したいと考えたきっかけはありますか?

片渕  前作『マイマイ新子と千年の魔法』でお世話になった山口県防府市の関係者や、交流が生まれたファンの中の何人もの方から『この世界の片隅に』をアニメ化すべきだ、とおっしゃっていただき、こうのさんの原作マンガをそうした目で読んでみました。
僕は、アニメの中で普通の日常生活の機微を描きたいと思っています。
しかし、現在のアニメーションを取り巻く環境は、そういった作品がなかなか成立しにくいんです。前作の『マイマイ新子と千年の魔法』も、制作会社マッドハウスの当時の社長が山口県出身だったので、頑張って企画を通してくれたような状況です。
『この世界の片隅に』は、戦争が対極にあるので、毎日の生活を平然と送ることのすばらしさが浮き上がってくる。「日常生活」が色濃く見えるわけです。ふつうの日常生活を営むことが切実な愛しさで眺められる。
また一方で、男の子の立場としての「戦争」の要素がある。
この両方を組みあわせて映像にできるのは、あまりいないんじゃないかと思いました。
自分はたまたま両方に対する興味を持っており、両方の作品をやったこともあった。 世界のディティールを徹底的に調べて作りあげる、というこれまでの手法も活かせる。
ある種の運命ですね。
これはたしかに自分がチャレンジしてみるべき作品だ、他の誰かにやってほしくない、と強く思いました。

――すぐ動かれたんですか?

片渕  とにかくこうのさんに連絡を取りたいと思ったんです。それで版権元の双葉社さんにアプローチしました。そうしたら双葉社の担当の方が、「もしかして『マイマイ新子と千年の魔法』の制作チームですか?『マイマイ~』のチームならこの作品を預けたい」とおっしゃって下さって。それで、社内を調整して下さったんです。
それでこうのさんへの企画書のような手紙と『マイマイ新子~』のDVDを託しました。

片渕監督の『名犬ラッシー』は、暗闇の中にぽっと点る灯りのような作品でした。

――片渕監督からのオファーを受けて、こうの先生はどのようにお感じになったのでしょうか。

こうの  びっくりしました。自分としては思い入れがあって、でも連載時はあまりぱっとしなかった作品だったので。
実は監督のお名前は存じ上げなかったのですが、監督のプロフィールの中に『名犬ラッシー』と書かれてあるのを見つけて、ぜひこの方にやっていただきたいと申しました。
『名犬ラッシー』のアニメが大好きだったんです。そんなに回数は見られていませんが。
大きな事件は何も起こらないのに、本当に居心地のいいアニメ作品でした。そういう作品って、なんとなくやっていれば見るという風になりがちですが、『名犬ラッシー』はこの続きがまた見たい、この子たちにまた会いたいと思わせてくれるアニメでした。

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販売元:バンダイビジュアル
https://www.bandaivisual.co.jp/meisaku/lassie.php

©NIPPON ANIMATION CO.,LTD.
“Lassie”©Classic Media, Inc. LASSIE is a registered trademark of Classic Media, Inc. All rights reserved.

片渕  こうのさんから、返事のお手紙をいただいたときに、『名犬ラッシー』は、子どもたちが遊ぶだけの話が、ずっと続いているところがよかったとおっしゃって下さったんです。

こうの  こういうやり方をやってる人がいるんだ、と驚いたんです。当時、私もそういうやり方をしたいと思っていましたが、自信が持てなかった。まさにそれをなさっている方がいたのでスゴイなと思っていたんです。
それまで「ラッシー」は、離れ離れになったラッシーががんばって飼い主の元に戻るだけの話だと思っていた。
でも片渕監督のアニメは、子どもたちとラッシーとの幸せな時間が丁寧に描かれ、積み重ねられていたので、引き離された子どもとラッシーのまた会いたいと思う気持ちが強く伝わってきた。子どもの側の気持ちがあんなに鮮烈に伝わってきた『ラッシー』は初めてでした。

――本当に強く心に残った作品なんですね。

こうの  思えば、人生は、真っ暗な夜の道みたいなものだと思うんです。でもよく見るとあちこちに灯りが点っていて、行ってみたいなという方向にも、誰ともわからない家の灯りがぽっと点っている。『名犬ラッシー』は私にとってそんな作品だったように思います。
私は、世の中には悲しいことも腹の立つこともいっぱいあるけれど、せめて創りごと(作品)の中では楽しいものを見たい。日常が美しく見えるようなものが見たい。そう思ってマンガを描いています。

たぶんそれは『名犬ラッシー』など片渕監督の作品から、お名前も知らないうちから感じていたことなんじゃないかなと思っています。
この『この世界の片隅に』もそういう気持ちで描いていたんです。
ですので、その片渕監督からお手紙をいただいたときには本当にびっくりしました。だって、自分が進む先に点ってる灯りの、その家に住んでる方から手紙が来たわけですから(笑)。
この作品を描いてる間は、私は一人だけ戦時中にいたような気持ちでした。孤独だった。も、一番見つけてほしい人に見つけてもらったんです。あまりに嬉しくていただいたお手紙を枕の下に敷いて眠ったくらいです(笑)。

――初めて直接お会いした時は、どのようなお話になったのでしょうか

こうの  最初から呉の話ばかりでしたね。監督が地図と航空写真を持っていらして…

片渕  それまでに2回くらい呉には行っていたのですが、やはりこうのさんに伺わないとわからないこともあって。折角お会いする機会なのでわからないことをみんな聞こう、というつもりで双葉社の会議室に行きました。

こうの  ですので、初めてというより、いつもの打合せ、みたいな感じでしたね(笑)

片渕  どうしても場所がわからないところがあって、うかがったら、僕らがあたりをつけて歩いたところの、もうほんの10数メートル先にあったということで。絶対見ておかなければならない場所だったので、夜行バスに飛び乗って0泊日帰りの弾丸旅程で確認してきたんですよ(笑)

――こうの先生は2011年9月23日に『マイマイ新子と千年の魔法』の舞台となった山口県防府市の国衙公園で開催された野外上映会にも参加されていらっしゃいましたね

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販売元:エイベックス・ピクチャーズ

©2009髙樹のぶ子・マガジンハウス/「マイマイ新子」製作委員会

こうの  片渕監督の『マイマイ新子と千年の魔法』は、平安時代の家の様子が見てきたように描かれていて、資料の下調べの具合に本当に驚きました。それで新子の町を見てみたいと思い現地での上映会に参加いたしました。1000年前に山口県に都があったなんて、考えたこともなかったので好奇心が湧きまして。意外に寒くて空気が澄んだところで、アニメにはその感じがよく出ているなぁと思いました。
『マイマイ~』を見ていると『この世界の片隅に』と地続きな感じがします。

片渕  『マイマイ~』の舞台は昭和30年の山口県防府。『この世界~』は昭和20年の広島県呉。隣の県で10年しか差がないですからね。『マイマイ~』の主人公・新子のお母さんは、すずさんとひとつ違いのはずです。似てるんだよな、あのふたり。

こうの  年齢だけじゃなく、天然なボケキャラなところも似てますね(笑)

調べること、は物語にとって「血」のようなものだと思うんです。

――片渕監督も『マイマイ新子と千年の魔法』を作る際、舞台となった昭和30年の山口県防府を可能な限り調べ、作品に反映していらっしゃいました。こうの先生の原作マンガも、細部まで非常に丁寧に調べられているのが印象的ですね。

片渕  もう、スゴいことをしてる人がいる!と驚愕しました。
自分もやったことがあるので、このスゴさの意味合いがわかる。
原作マンガの昭和19年4月のエピソードに戦艦大和がちょっとだけ登場します。実は、戦艦大和が昭和19年4月に呉の港に入ってくるのは4月17日の1回だけです。それでこの日は4月17日だと特定できる。そうすると、天気はもちろん、気温だって調べることができるわけです。この4月17日にはうららかで春霞がかかるような日だったようです。その日にすずさんと周作さんは肩を並べてタンポポ畑にいて、大和が入ってきた港を見下ろしている。
こうして、ぼやっとした「あの頃」が、明確な輪郭をもった「特定の1日」になる。そういう1日1日が積み重なって毎日がある。そこで営まれるすずさんの生活にもリアリティが生まれてくるんです。

――作品創作において、調べること、をどのように考えていらっしゃるのでしょうか。

片渕  マンガにしてもアニメーションにしても、自分たちで描いて形にするしかないんです。何ひとつ偶然が入らない。全部自分たちが考えたものしか画面に入らない。ところがこうのさんの年表のようなやり方だと、(事実の存在により)ものすごくたくさんの偶然が作れます。自分たちの考えも及ばないようなことが画面に入って来たりするわけです。『この世界~』のように確実にその土地があり、毎日何が起こったのかある程度わかり、その中にすずさんを置くと、客観的に存在しているようなすずさんを感じることができるようになっていくんです。

こうの  調べる、ということは、物語の中の「血」のようなものだと思うんです。調べることで巡っていき、作品の心臓を動かして生きたものにしていく。新しいものを取り入れていくこともできますからね。

片渕  イマジネーションだけで作品を作っていけるのは素晴らしいことなんですが、でもそれだと本人の中にあるものだけになってしまう。

こうの  似たものの繰り返しになってしまいますね。

片渕  だったらどんどん「輸血」した方がいい。もう一つ大事なことは、調べたこと、つまり現実の世界を作品に持ち込むと、現実に住む自分たちと地続きになっていくんです。映画の中で描けるのは限られた尺のカットの中だけのことですが、その外側まで拡がっていけるんです。


©こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

片渕  僕は常々、自分たちが作れるのは映像まででしかなくて、「映画」として完成するのはお客さんの心の中でなのだと思っています。枠に切り取られた映像でしかないものの外側まで感じられれば、お客さんの心の中でどこまでも拡がっていける映画が作れると思うんです。
リアリティを追求することは、世界を限定することではないんです。逆に、その世界が存在すると感じられ、見えている以外にあるものを想像力で感じられるようになると思っています。

アニメ映画化では、あの人の毎日の中に光を見つけて、教えてあげたい。

――アニメ化への動きが加速していくことになりますが、今の思いをお聞かせください。

片渕  原作の魅力を損ねないように、というより、自分がいいなと思うところを曲げないようにしたいと思っています。まずはそこからですね。すずさんの人となりが基本だと思います。あの人はぼーっとしてると言いながら、毎日毎日普通に生きてるつもりなんです。でもその毎日がいかに愛おしいものか。僕らは外側にいるので、あの人の毎日の中の光を見つけ、すずさんにも教えてあげられたらいいな、と思っています。

こうの  やはり作品は、マンガ家にとって自分の子どもような存在です。私が描いたことで、この子は『夕凪の街~』の二番煎じだと思われてる不運な作品だった。頑張って愛情を注いで描いて、自分としてはこれ以上ないほど良い作品だと思っていたんですが、申し訳なかったと思っていました。でもいい人に見つけてもらって、いい結婚をしたなと思っています。私の手元にいる時もいい読者に出会えた。そしてアニメーションになって、さらにいろんな人と出会って、さらに成長していく作品なんだな、と思っています。楽しみに物陰から見守らせていただきます。


©こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

片渕  アニメ化の機会がなければ『この世界~』は死ぬまで枕元に置いておきたい作品でした。自分でアニメ化すると、作品を腑分けのように解剖していかなくてはならないから、わかったような気になってしまうので、もう二度と読まなくなってしまったりする。しかし、この作品はどうしても自分でやりたかった。他の誰かに委ねたくなかった。そしてやり始めて感じているのは、腑分けしても腑分けしきれない。それでも一生大事にして行ける作品だなということです。

こうの  マンガは基本的に一人で読むものですが、映画になるとたくさんの人と一緒に見ることができる。話すことのきっかけになる。いろんな世代の人と一緒に来て、共有していただけたら嬉しいですね。

――それでは最後に、お互いへのエールをお願いいたします。

片渕  こうのさんは『この世界の片隅に』の後、しばらくマンガが描けないほどだったそうですが、『ぼおるぺん古事記』を描き上げられた。またぜひ『この世界~』を上回る新しい物語世界を生んでいいただけたら素晴らしいなと思っています。

こうの  ありがとうございます。頑張ります。 私は、片渕監督の後ろを来ていましたが、片渕監督は何もないところを手探りで進んでいらして、ずっと大変な思いをされてきたと思います。これからもお身体を大事にして頑張っていただきたいと思っています。
監督の作品を見て、《お子様ランチに旗を立てない人》だなぁと思っています。何の脈絡もないことをしない。そういうところも素敵だなと思っています。でも、あんまり根を詰めずにやっていただけるとありがたいです。

片渕  ありがとうございます。

(2015.3.16 MAPPA第2スタジオにて)

出会うべくして出会ったふたり。

対談を終えてそう強く感じた。

実際にふたりが出会ったのは『この世界の片隅に』のアニメ映画化企画が契機であったが、それよりはるか以前に『名犬ラッシー』がふたりをつないでいた。

作品の創作姿勢という最もコアな部分を共有する片渕が、こうの自身が思い入れる『この世界の片隅に』を映画化する。

その結晶を大きなスクリーンで見ることのできる日を、静かな興奮をもって待っていたい。

(編集部・山本和宏)

 

■アニメ映画『この世界の片隅に』公式ホームページ
http://www.konosekai.jp/

■「MAKUAKE」内『この世界の片隅に』クラウドファンディングページ
https://www.makuake.com/project/konosekai/

 

片渕須直(かたぶち すなお)

1960年生まれ。アニメーション映画監督。日大芸術学部映画学科在学中から宮崎駿監督作品『名探偵ホームズ』に脚本家として参加。『魔女の宅急便』(89)では演出補を務めた。TVシリーズ『名犬ラッシー』(96)で監督デビュー。その後、長編『アリーテ姫』(01)を監督。TVシリーズ『BLACK LAGOON』(06)の監督・シリーズ構成・脚本。2009年には昭和30年代の山口県防府市に暮らす少女・新子の物語を描いた『マイマイ新子と千年の魔法』を監督。口コミで評判が広がり、異例のロングラン上映とアンコール上映を達成、全国にも飛び火した。

こうの史代(こうの ふみよ)

1968年広島県出身。マンガ家。1995年『街角花だより』でデビュー。2004年に発表した『夕凪の街 桜の国』で第8回メディア芸術祭マンガ部門大賞と第9回手塚治虫文化賞新生賞を受賞。『この世界の片隅に』(07 ~09)は、第13回メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、「THE BEST MANGA2010 このマンガを読め!」第1位、「ダ・カーポ特別編集 最高の本!2010」マンガ部門第1位を獲得。その他の主な作品に『長い道』、『ぴっぴら帳』、『こっこさん』、『さんさん録』、『ぼおるぺん古事記』、『日の鳥』など。

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