Feature

塩田明彦がコロナ禍の中で描いた“世界”

『黄泉がえり』(03)、『どろろ』(07)、『さよならくちびる』(19)などのヒット作・話題作を世に送り出した塩田明彦監督の最新作『麻希のいる世界』が1月29日より公開される。本作は、コロナ禍の一昨年、緊急事態宣言発令で仕事がストップしてしまった塩田監督がその時の思いをぶつけて一心不乱に脚本を書き上げ、スタッフ・キャストを集め、撮影を行った。インディペンデント作品ではあるが、それゆえに塩田監督作の持ち味ともいえる、突きつけられた現実に向き合いながら登場人物たちの強烈な生きざまがぶつかり合う、衝撃作である。そこで今号のVECTORでは塩田監督の過去作も含め、これまでに数々の塩田作品に言及してきた映画批評家の相田冬二氏に、塩田監督のインタビューをお願いすると同時に、過去作を含めた「塩田明彦論」を展開していただいた。

Index

Chapter1 塩田明彦監督インタビュー

映画『麻希のいる世界』とは……。

©️SHIMAFILMS
Story
重い持病を抱え、ただ“生きていること”だけを求められて生きてきた高校2年生の由希(新谷ゆづみ)は、ある日、海岸で麻希(日髙麻鈴)という同年代の少女と運命的に出会う。男がらみの悪い噂に包まれた麻希は周囲に疎まれ、嫌われていたが、世間のすべてを敵に回しても構わないというその勝気なふるまいは由希にとっての生きるよすがとなり、ふたりはいつしか行動を共にする。ふと口ずさんだ麻希の美しい歌声に、由希はその声で世界を見返すべくバンドの結成を試みる。
一方で由希を秘かに慕う軽音部の祐介(窪塚愛流)は、由希を麻希から引き離そうとやっきになるが、結局は彼女たちの音楽作りに荷担する。彼女たちの音楽は果たして世界に響かんとする。しかし由希、麻希、祐介、それぞれの関係、それぞれの想いが交錯し、惹かれて近づくほどに、その関係性は脆く崩れ去る予感を高まらせーー。

「わたしの心象風景とは無関係に世界は動き続けている」 塩田明彦監督インタビュー (取材・文=相田冬二)

「『害虫』や『カナリア』から、そんなに時間が経った感覚がないんですよ」

塩田明彦監督は、新作『麻希のいる世界』で三度目のタッグとなる向井秀徳への楽曲依頼について、そう語っている。『害虫』は2002年、『カナリア』は2005年。いずれも新作同様、ティーンエイジャーを主人公としている。

「一筋縄ではいかない、酸いも甘いも噛み分けた禍々しい青春映画なので、向井さんしかいないという想いがありました」

自作を「禍々しい」と表現することもさることながら、監督が過去作を遠くに感じていないことは重要かもしれない。事実、20年以上前とは信じ難いほど『害虫』という映画はみずみずしい。『麻希のいる世界』同様、禍々しいが、それと同じくらい、みずみずしい迫力がみなぎっている。生まれたての『麻希のいる世界』と、『害虫』そして『カナリア』は、まるでそれぞれが個性的なクラスメイトのように、肩を並べるように生命力を迸らせている。  時代背景は違うはずなのに、常に時代に媚びずに作品を創ってきたから、時代に支配されないし、時代を超越している。経年に呑み込まれたり、時間差に堕すことがない。塩田明彦の映画は、古くならない。そう、観客であるわたしたちにとっても「ついこのあいだ」の感覚なのだ。
演出中の塩田明彦監督。©️SHIMAFILMS
『麻希のいる世界』がそうであるように、ほとんどの場合、塩田明彦の作品は、登場人物が限定されている。そこでは、緊密な関係性が見つめられる。『害虫』もそうだし、『どこまでもいこう』(99)もそうだし、『抱きしめたい』(14)も、『さよならくちびる』もそうだ。一見、群像劇に映る『黄泉がえり』もまた、関係性そのものは限定されたキャラクターたちの間に派生しているもので、やはり緊密な関係性が点在している。作品から受ける緊密な強度は何も変わらない。

「確かにそうですね。そういう映画が好きだから、そういう映画を撮っているのか。そういう映画を撮り始めたから、そういう映画を好きになったのか。わからないけど。自主映画を撮り始めた大学生のときから、『この数人で何が起きるか』を常に考えている。人を沢山集めて自主映画を撮る人も当時からいました。自分は人付き合いが苦手なので、できるだけ身近な少人数で作っていましたね。プロの脚本家になってから『もっとストーリーにうねりを作ってほしい』と言われたことがあったんです。新しい登場人物が、新しいドラマを持ち込んでくる。それが作劇のセオリー。登場人物が増えれば増えるほど、展開の可能性も増えてくる。でも、それが性に合わなかった。理論的なことではなく、何か好きではなかった。『黄泉がえり』も、ありきたりの日常空間が、気がつくと、切羽詰まった非日常の世界に踏み込んでしまう。ある瞬間、誰かが途方に暮れている。自分が脚本を書くと、どうしようもなく、そうなる。言葉を失って立ち尽くしている人ばかり撮っている。『麻希のいる世界』を撮って、このことを自覚しました。愛も友情も善意も、すべて途方に暮れてしまう。自分はどこかで世界というものをそんなふうに見つめてきたんですかね」

 茫然自失としながらも、しっかり立っている人間を塩田監督は見つめる。それは絶望の情景ではない。緊密だからこそ研ぎ澄まされており、強烈な豊かさが香りたつ。

「主人公たちの気持ちの反映のように、世界が暴力的にざわめきたっている。そして、あるとき、主人公が立ち尽くしても、音は鳴り止まない。『わたしの心象風景とは無関係に世界は動き続けている!』そのようなことかもしれません。そして、ますます呆然とする。これまで強く意識してきたわけではないけれど、そんなことばかりやってきたのかもしれない」

ただ、塩田監督の映画は、決してサディスティックだったり、マゾヒスティックだったりするわけではない。呆然と立ち尽くすしかない人間の、その生命力をどこか信頼しているようにも映る。

「僕自身には、どこかマゾヒスティックなところがあるのかもしれません。あらゆる苦を楽にする。あらゆるマイナスをプラスにしていかねば。そんな想いがある。たとえば、自分の身近な人間が殺されでもしたら、それは大きなショックを受ける。でも、そういうこととは全然違う次元での『強烈な体験』を観る人に突きつけたいし、自分も体験したいんです」
由希役の新谷ゆづみ(左)と麻希役の日髙麻鈴。©️SHIMAFILMS
前作『さよならくちびる』を「繊細にひとつひとつの出来事を積み上げていくウエルメイドな作品だとすると」と前置きした上で、新作については次のように表現する。

「今回は嵐のような、突風が吹いているような展開になりましたね。あるときから綿密な構成を用意せずに、登場人物が突然何かを切り出し、場合によっては次の展開がまったく変わっていく作品作りになった。結果、今回は展開の速い映画になりましたね」

『麻希のいる世界』は、主にふたりの少女とひとりの少年によってかたちづくられているが、三者とも、何をしでかすかわからないまま進んでいく。  ある者が口走る言葉で、ある者の唐突な行動で、出来事が躍動していく。構築と頓挫、崩壊と再生、停滞と疾走、沈黙とざわめき、それらが隣り合わせにあり、わたしたちは予断の許されぬ領域で、彼女たちの怒濤と情景を目撃することになる。

「世の中、何が起きるかわからないですよね。どんなことがあろうと自分の意志を貫こうとしている少女がここにいる。胸に秘めた想いを一途に実現しようとして、何があろうとも挫けない。しかし、そんな人間の意志が強ければ強いほど、世界は辛く当たってくる。それでも諦めない。その結果、何を手に入れたかは問題ではない。倒れるまで走る、走りきることができる人への尊敬の念が僕にはある。自分にはできないことをしているから。強烈な生き様を見せつけてくる人に対する強い興味があるんです」

塩田明彦の映画は苛烈だ。
コロナ禍においても決して潰されない、へこたれない、しぶとい反逆がある。何が起きるかわからない世の中だからこそ、その反逆は鈍い光を放つ。そして、この監督は、対象の年齢にとらわれず、反逆の魂を手放さず、あくまでも意志的に生き抜くサバイバーを心の底からリスペクトしている。だから、作品には情動が迸るし、生命が脈打っているのだ。

「強い設定の枠組みを作らなかった。強い設定を組んでしまうと、その分、人間が弱くなる。強いドラマの中で人間がどう動いていくか、ということになる。それをなくすと、人間そのものをドラマとして提示するしかなくなる。それが面白い。この人間そのものをドラマとして掘り下げていくと、何が起きるんだろう? それは、人物を精神分析的に解釈するのとはまったく違うこと。ちょっとした仕草や言動で、その後の展開が全然変わってしまう。自分の中で、あらかじめ想定したメッセージがあるわけではない。ある人物が起こすドラマが何を語るか、僕にもわからない。今回は、映画が出来てみて初めて、生きる手応えをめぐる物語に向かっていたのだなと知った。異なる生き方をする人たちが出逢ったとき、何が起きるのか。『麻希のいる世界』は、それを見たかったのだと思う」
『麻希のいる世界』より。©️SHIMAFILMS
人物の行動が物語運びになっている映画を見かける。つまり、人物が物語に従属し、支配されている。塩田の映画は逆だ。人間の中に物語がある。いや、人間が物語を牽引し、どこでもないどこかに連れ去っていく。そうだ、人間は物語の奴隷ではないのだ、人間が生きて、行動するから、物語が生まれるのだ。人間が生きた痕跡が、轍となって刻印される。それを、たまたまわたしたちは物語と呼んでいるにすぎない。物語は先に立たない。いつだって、人間が先行する。物語は後から付いてくる。この真実を思い知る体験が、塩田作品と遭遇する衝撃に他ならない。

「人間を描いているが、人間を描いているとは言いたくない。人間とはこうしたもの、というある種の決めつけが『人間を描くこと』になってはいまいか。描きたいのは人間総体ではない。ある個的な存在を描きたい。『この人』のことを語っているという強い意識がある。向き合っているのは、いわゆる人間なるもの、ではない。一切、総体に還元されたくない。だから『麻希のいる世界』も『10代の少女なるもの』とは関係がない。ただ、この人はこうだった、としか言いようがない。メッセージなんて伝わらなくていい。ある体験を強いているだけなのだと思います」

タイトルに聳え立つ「世界」の一語が鮮烈だ。まさに突きつけてくるものがある。塩田はかつて、3.11をめぐる短編を撮ったとき、それを『世界』と名づけている。いわゆる「人間」を描いていないとすれば、この監督は「世界」を凝視しているのではないか。

「『世界』がなんなのか。僕はわかってなんかいないですよ。『麻希のいる世界』というのは、麻希がいないと世界じゃない、という由希(主人公)の断言ではあるのだと思います。物事を善悪の軸では一切見ていないことは確か。こうあるべき、という『べき』が、そこにはない。ただ、否応なく、そうであった。解釈が介入する場ではない、というか。それでも、私は、何度生まれ変わっても、この世界を選ぶ。それが由希。麻希のいない世界は、世界じゃない。麻希のいる世界を、私は選ぶ。ただ、そういうことなのだと思います。言っていることは、きわめて主観的ですよね。でも、彼女ひとりでは成り立たない。自分の力ではコントロールできない。でも、それこそがリアルじゃないですか」
『麻希のいる世界』より。©️SHIMAFILMS
だから、塩田が描く「世界」は、夢想でもなければ妄想でもない。内側で完結し、閉じて、自閉していくものではない。外側に向かって、見開いていく、対峙あるエネルギーがそこにはある。その結果、立ち上がってくるものを「世界」と呼んでいるのではないか。

「君さえいればそれでいい。他人にどう思われようが構わない境地に達している人はすがすがしいですよね。他人のことはどうでもいい。私の想いがここにある」

その作品群は決してカテゴライズされるものではない。だが、『月光の囁き』、『どこまでもいこう』、『害虫』、『カナリア』と、10代の少年少女を描いてきたのは紛れもない事実だ。

「僕は、10歳のとき、世界を理解した。それは世界と調和した、ということではなく、世界への圧倒的な違和感を経験したということなんです。それまでは考えなくても人間関係が作れていた10歳のある日、すべての友達が遠くに感じられた。それ以前は人と人が仲良くなるのに、そんなに理由がいらなかった。偶然、クラスが同じとか、家が近いとか、席が近いとかで関係が築けていたのに、それぞれの資質がものすごく問われるようになる。周囲との違和感が急速に立ち上がってきて、人とどう付き合えばいいのかわからなくなって、世界がどんどん遠のいていったんですね。気がついたら『人間は独りなんだ』と。団地の中をうろつきながら『これが世界だ』と。世界はこんなふうに人を突き放してくるものなのだと。その感覚がいまだに続いている。 孤独の誤魔化し方は大人になるとどんどん上手くなっていくじゃないですか。でも子供たちは誤魔化し方をまだ知らない。だから子供たちの身の回りに起きることは、大人のドラマより数倍ドラマティック。あらゆることが増幅して起きる。そして、アクションが先に来る。行動が先に来て、理屈が後から来る。そこが映画と親和性が高いと思うんです」

塩田明彦の映画には誤魔化しが、ない。やり過ごしが、ない。だから、すがすがしい。

「ここに不幸な少女がいるとする。そのことを、社会が悪いんですね、と受け取っても仕方がない。そうではなくて、何か決定的な出来事や生き様には、ものすごいインパクトがある。そういう出来事を目撃すると、決定的に何かを刻みつけられる。そういう生き様に出逢ったときに、人は本当の意味でものを考え始める。決定的な出来事はいつまでもその人の中に残り、知らず知らずのうちに、その人の生き方に影響を与えていくかもしれない。自分がそんなふうに映画や音楽に接してきた。だから、自分の映画もそういうものでありたい」
塩田明彦©️SHIMAFILMS

塩田明彦(しおたあきひこ)

1961年、京都府舞鶴市生まれ。99年、『月光の囁き』『どこまでもいこう』がロカルノ国際映画祭に正式出品後、二作同時公開され、高い評価を得る。2001年、宮崎あおい主演『害虫』がヴェネチア映画祭現代映画コンペティション部門(現・オリゾンティ部門)出品の後、ナント三大陸映画祭審査員特別賞・主演女優賞を受賞。03年には『黄泉がえり』が異例のロングランヒットとなる。05年、『カナリア』でレインダンス映画祭グランプリ。07年には『どろろ』が大ヒットを記録した。近作に『抱きしめたい ー真実の物語ー』(14)、『昼も夜も』(14)、『風に濡れた女』(17/ロカルノ国際映画祭若手審査員賞)、『さよならくちびる』(19)。著書に『映画術・その演出はなぜ心をつかむのか』(イースト・プレス刊)がある。

『麻希のいる世界』

出演:新谷ゆづみ、日髙麻鈴、窪塚愛流
鎌田らい樹、八木優希、大橋律、松浦祐也、青山倫子、井浦新
監督・脚本:塩田明彦
劇中歌:「排水管」(作詞・作曲:向井秀徳)、「ざーざー雨」(作詞・作曲:向井秀徳)
製作総指揮:志摩敏樹、山口貴義 プロデューサー:大日方教史、田中誠一
撮影:中瀬慧 美術:井上心平 編集:佐藤崇 照明:福島拓矢 録音:松野泉
2022年/日本/89分
製作・配給:シマフィルム株式会社 ©SHIMAFILMS
https://makinoirusekai.com/
1月29日(土)より渋谷ユーロスペース、新宿武蔵野館ほか全国順次公開

  • 『麻希のいる世界』予告編 ©️SHIMAFILMS
  • 『麻希のいる世界』特報 ©️SHIMAFILMS

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