塩田明彦がコロナ禍の中で描いた“世界”
Chapter2 塩田明彦が描く世界
「孤立した魂と魂がぶつかり合うことの激烈さ」 ー相田冬二の塩田明彦論ー
塩田明彦が映画監督としてデビューしたのは1999年。『月光の囁き』でのことだった。
プロの監督としての出発はそれに先立つ1996年。いまでは観ることが困難だが、オリジナルビデオ「露出狂の女」。本作(高橋洋脚本)も大変な傑作である。
つまり、塩田には(学生時代の自主映画を除いても)既に四半世紀以上のキャリアがある。
『黄泉がえり』(03)はロングランヒットとなった。大作『どろろ』(07)も手がけた。キャリアの厚みに相応しい変遷はあるかもしれない。だが、映画作家としてのありようと作品的風貌は、驚くほど変化していない。
初のオリジナル脚本による監督第2作『どこまでもいこう』(99)は、塩田がインタビューで述べている通り、彼自身が10歳のときに体験した、この世界との乖離と発見を基に紡がれている。
仲の良かった友達が急速に遠のいていく感覚を、男子小学生としてのリアルを中核に据え、きめ細やかで濃密なスケッチとして映し出した。 やはりオリジナル脚本による最新作『麻希のいる世界』について考えるとき、設定も物語世界もまるで違うはずの『どこまでもいこう』のタイトルが思い浮かぶ。
なぜなら、『どこまでもいこう』という言霊が孕む不屈のポジティビティは、紛れもなく『麻希のいる世界』にも血流となっているからである。
プロの監督としての出発はそれに先立つ1996年。いまでは観ることが困難だが、オリジナルビデオ「露出狂の女」。本作(高橋洋脚本)も大変な傑作である。
つまり、塩田には(学生時代の自主映画を除いても)既に四半世紀以上のキャリアがある。
『黄泉がえり』(03)はロングランヒットとなった。大作『どろろ』(07)も手がけた。キャリアの厚みに相応しい変遷はあるかもしれない。だが、映画作家としてのありようと作品的風貌は、驚くほど変化していない。
初のオリジナル脚本による監督第2作『どこまでもいこう』(99)は、塩田がインタビューで述べている通り、彼自身が10歳のときに体験した、この世界との乖離と発見を基に紡がれている。
仲の良かった友達が急速に遠のいていく感覚を、男子小学生としてのリアルを中核に据え、きめ細やかで濃密なスケッチとして映し出した。 やはりオリジナル脚本による最新作『麻希のいる世界』について考えるとき、設定も物語世界もまるで違うはずの『どこまでもいこう』のタイトルが思い浮かぶ。
なぜなら、『どこまでもいこう』という言霊が孕む不屈のポジティビティは、紛れもなく『麻希のいる世界』にも血流となっているからである。
少女、由希は、彼女にとって秘密の想い出が詰まった場所で、麻希に出逢う。難病を抱え、制限された生活を強いられている由希にとって、奔放に己を貫く麻希は眩しい存在だ。麻希の音楽的才能を知った由希は、それを世に知らしめるべく、一心不乱に動き出す。やがて、由希に想いを寄せる軽音楽部のエース、祐介の力を得て、麻希の楽曲は本格始動するかに思えたが。
由希と祐介には親同士の複雑な関係があり、また、麻希にもどうにもならない家庭の事情が深く影を落としている。
しかし、そうした背景があるにもかかわらず、主人公たちの行動原理は、因果に支配されない。もちろん、ある種の欠落から出発はしている。ティーンエイジャーであれば、そのことは大きいだろう。ところが、いわゆる悲劇や不幸という決めつけが意味を成さない次元に、映画は求心的に突き進む。
とんでもないことが起きる。だが、安易な同情や憐れみを全く寄せ付けない、敢然とした、そして超然とした風格がそこにはある。
塩田明彦は、孤立した魂を描く。しかし、絶対に孤独を愛撫するような真似はしない。
ひとりの少女を見つめ抜いた『害虫』(02)もまさにそうだ。
主人公は、この世界に背を向けているわけではない。この世界から逃避しているわけではない。
むしろ、この世界を追い求めている。この世界を必要としている。だから対峙している。しかと向き合っている。そのありようがあまりに苛烈なので、わたしたちは呆然とする。だが、これこそが、生きるということなのではないか。
新興宗教信者の子供を描いた渾身の作『カナリア』(05)は、どうにもならない家庭環境=コミュニティからの脱出を描いているという点で、『麻希のいる世界』とリンクする。『カナリア』の少年は、麻希でもあるし、由希でもある。
逃げるのではない。出発するのだ、という意志が画面にはみなぎっている。
『カナリア』では、ひとりの少女がカメラを睨み付ける。その理屈を超えたショットは、『麻希のいる世界』を深く理解するには最適かもしれない。 だが、参照すべきは少女を凝視する『害虫』や、少年の旅立ちを追いかける『カナリア』だけではない。
実話をベースに構築した『抱きしめたい ー真実の物語ー』(14)では、成人女性と成人男性の姿を見つめている。女性は事故の影響で、身体に障害があり、記憶も留めておけなくなる。恋人である男性は、そんな彼女のそばにいようとする。
たとえば、どうしても設定や物語で映画を捉えたいのであれば、献身なる一語も浮上するかもしれない。悲劇的な運命で不幸に陥った女性を、男性が愛の献身で支える。その構造に酔い、感動するのはたやすいことだ。
だが、この映画は、そのような安全地帯には存在していない。
彼女のことも、彼のことも、孤立した個的な存在として、徹底的に見つめ抜く。だからこそ、唯一無二の、世界でたったひとつの、かけがえのない関係性が、画面に刻みつけられる。
ありきたりのカテゴライズに、安心して感動できる物語に、人間を収容しない。
だからこそ、世界というものが、ぐわっと立ち上がってくる。
北海道を舞台にしていることも影響しているが、雪の中に存在するふたりの光景は、まるで、この世界に彼女と彼がふたりきりでいるような、美しき孤立無縁の佇まいがあった。
『麻希のいる世界』では、それが、由希と麻希の出逢いの場所でもある海辺で派生する。
この世界は、ふたりだけのもの。そこでは、想像を絶するほど激烈なロマンティシズムが、わたしたち観客に突きつけられている。
ひとりの少女を見つめ抜いた『害虫』(02)もまさにそうだ。
主人公は、この世界に背を向けているわけではない。この世界から逃避しているわけではない。
むしろ、この世界を追い求めている。この世界を必要としている。だから対峙している。しかと向き合っている。そのありようがあまりに苛烈なので、わたしたちは呆然とする。だが、これこそが、生きるということなのではないか。
新興宗教信者の子供を描いた渾身の作『カナリア』(05)は、どうにもならない家庭環境=コミュニティからの脱出を描いているという点で、『麻希のいる世界』とリンクする。『カナリア』の少年は、麻希でもあるし、由希でもある。
逃げるのではない。出発するのだ、という意志が画面にはみなぎっている。
『カナリア』では、ひとりの少女がカメラを睨み付ける。その理屈を超えたショットは、『麻希のいる世界』を深く理解するには最適かもしれない。 だが、参照すべきは少女を凝視する『害虫』や、少年の旅立ちを追いかける『カナリア』だけではない。
実話をベースに構築した『抱きしめたい ー真実の物語ー』(14)では、成人女性と成人男性の姿を見つめている。女性は事故の影響で、身体に障害があり、記憶も留めておけなくなる。恋人である男性は、そんな彼女のそばにいようとする。
たとえば、どうしても設定や物語で映画を捉えたいのであれば、献身なる一語も浮上するかもしれない。悲劇的な運命で不幸に陥った女性を、男性が愛の献身で支える。その構造に酔い、感動するのはたやすいことだ。
だが、この映画は、そのような安全地帯には存在していない。
彼女のことも、彼のことも、孤立した個的な存在として、徹底的に見つめ抜く。だからこそ、唯一無二の、世界でたったひとつの、かけがえのない関係性が、画面に刻みつけられる。
ありきたりのカテゴライズに、安心して感動できる物語に、人間を収容しない。
だからこそ、世界というものが、ぐわっと立ち上がってくる。
北海道を舞台にしていることも影響しているが、雪の中に存在するふたりの光景は、まるで、この世界に彼女と彼がふたりきりでいるような、美しき孤立無縁の佇まいがあった。
『麻希のいる世界』では、それが、由希と麻希の出逢いの場所でもある海辺で派生する。
この世界は、ふたりだけのもの。そこでは、想像を絶するほど激烈なロマンティシズムが、わたしたち観客に突きつけられている。